2011年5月19日木曜日

斉藤 力♪


今日も帰り道の途中駅の池袋で降りて何気なく本屋に向かっていたら、またもやナイスなストリートミュージシャンの演奏を聴く機会に偶然出会い、思わず立ち止まって聴いてみました。ちょうどその頃、巨人vs楽天の試合が延長10回の表で1アウト満塁・バッター大田!という展開を見せており(大田君はプロ入り初ヒット+初打点+勝利打点!おめでとう!)、ツイッター上での巨人戦と演奏を交互に楽しむという何ともせわしない状況だったのですが、路上で展開されている素晴らしい演奏は十分に堪能致しました。 演奏が終わると、立ち止まって聴いていた若者達がかなり興奮していて「素晴らしかったです!」「メッチャカッコよかった!!」などと話しかけていました。僕も寄って行ってCDを買おうとしました。CDは2種類置いていました。僕はSax奏者の方に話しかけました。
「この2枚、どんな感じで違うのですか?」
「うーん、こっちの方がストリートな感じがすると思います♪」
そのストリートな感じの作品を購入。(俺もケチだね T_T 両方買えばいいのに)『Tri・Be・Ca 1st』という作品です。
今日の演奏はSax、WoodBase、Drumsという3人編成で行われており、先日やはり池袋で偶然見かけた Sinsuke Fujieda Trio (SF3) と同じ編成でした。SF3同様、熱い演奏を奏でていました。Sax奏者は斉藤力さんという方で、新宿などでもストリートライブを行っているようです。CDは路上ライブに比べて少し洗練された感じがして、ドライブには最適かな、と思います。(2004年の作品のようです。)

しかしいいねいいね~池袋♪僕は時々東京に対して否定的な言葉を書いたりするけど、やっぱり東京は何だかんだ刺激があって楽しいです。これからもこういう熱い路上ライブ演奏を聴かせてくれる事を楽しみにしてよっと♪

2009年?の斉藤力さんの路上ライブが「ようつべ(笑)」に落ちていたので拾いました。新宿でのストリートライブで、Tri・Be・Ca と同じメンバーでの演奏です。(ベースはエレキだけど)

2011年5月9日月曜日

木材が持つ優しさ


愚痴っぽくなったので、GWに感じた事など。
親戚の家が横浜にあり、5月4日・5日を使って泊りに行ってきた。カミサンと姪っ子が買い物をする間、僕と子供達で駅前(市営地下鉄:センター南)にある広場で遊んでいた。広場と言っても階段上に下に潜るような形の箇所があり(上手く表現できないが(笑))、そこに鯉のぼりが飾ってあって「そういえば今日は子供の日だったな。」と思い出しながら子供達と遊んでいた。その大きな階段状のものは木で出来ており、大きなウッドデッキのようなものが階段状になっていると表現すれば、このブログを後で読み返しても思い出せるかな?(笑)
そこで僕たちはかくれんぼ(と言うよりウォーリーを探せゲーム)したり競争したりした。ウチの子も足が速くなったなぁ、なんて思いながら。本当は走り回る事など許されないのだろうが、楽しかった。やっぱり木でできた物は人間に優しい。踏み心地もコンクリートを踏む時のような硬さがない。膝に優しい。何しろ視覚的にも座り心地的にも、木は優しいね。林業はもっともっと人の生活を安らかに、穏やかにする事ができるのではないか?もっと促進されるべき産業なのではないか?なんて考えました。そうだよなぁ。僕は何もしないけど、「日曜大工」って言葉があるもんね。子供との触れ合いの中で、もっと自然との触れ合いも多く取り入れようと思いました。

今のままの資本主義は正しいのだろうか?

まぁ、さっきの愚痴書き込みの後でこんな事を書くのもなんだが。敗者の戯言のようで。でもずーっと思っている事を書きたい。

そもそも僕は教師志望で、世の中の事(特にお金)にあまり関わりたくないと学生時代は考えていた。中学時代に今は亡きオヤジとある事で確執があり、「お金なんてクソくらえだ!俺は生きたいままに生きたい!」という甘い?考えでいた。そんな僕が何を思ったか教師をあきらめ(教師は既に余っていたから)商社に就職し、今こうして働いている事も不思議なのだが(笑)。そんな僕だからこんな事を考えるのだろうか?

僕は、今日本で行われている資本主義という名のマネーゲームはかなり変な状況を生み出しているように思う。例えば今日、『菅総理が浜岡原発停止を決めたので、中部電力の株価が暴落した』という呟きをTwitter上で見かけた。その文面だけ見ると、まるで菅総理の英断が悪い事かのような内容に受け止められた。僕は思う。「はぁ??福島のあの悲惨な放射線被爆の状況を見ても、まだ原発廃止を強く訴えられないのだろうか?自分がその立場に立ってみなよ。菅総理の浜岡原発は英断。むしろ原発全面廃止へのマップを早く示して欲しいくらいだ。それと中部電力の株価暴落を並べて論じる事が正しいのだろうか?」と。(株価自体、何を根拠に数値化されているかも怪しいものだが...)

僕の思いはそれだけに留まらない。僕は経済の素人だが、そんな事は構わず言えば、僕から言わせれば経済とは「単なるお金の循環」だ。世の中には善意の行為が多々あるにも関わらず、興味を惹いたり目新しいものなどに投資が必要以上に行われるため、善意ある行動がお金の循環に入れない事がある。また生まれながらにして貧困な人達はそのお金の循環ゲームに加わる前にハンディを背負っている事も多く、そういう実力や人間性に富の配布が比例しない事を「世の中は厳しいんだ」なんて良く判らないセリフでスルーしてしまう。これってありなのか?

もっと言おう。今行われている資本主義とは、「先代から延々と引き継がれたモノポリー」みたいなものだ。破産するまでグルグル回る。延々とゲームは終わらない。先に金のなる木を見つけた者が富を淡々と得る事ができる。持たざる者は支払うのみ。財産没収のババを掴まなければ金持ちは延々と金持ちで、貧乏はどんどん貧乏になる。僕は収入面で恵まれる部類に入るのでこんな事いう立場にはないのかもしれないが、今の若者の雇用状況や多くの中小企業の倒産を知るにつけ、「なんでこうなるのか?」と不思議に思う。国は国債発行額ほぼ1000兆だと言う。確かにそうだ。しかしその国債を購入しているのは国内企業と市民だ。”国”を国家と民間を両方で見た場合、日本は黒字です。しかも特別会計なんてよく分からない国家資産もある。なのに何故その資産をなるべく公平に分かち合うように循環できないのか?「日本ほど貧富の差がない国はない」うん。それが何?いい事じゃないか。だから何だと言うのか?何故に良い事をあたかも特殊な事のように論じて、グローバリズムという世界状況がデフォルトなんだと思おうとするのか?もっともっと貧富の差を無くして(というより絶対的貧困を廃絶して)「日本はこんなに住みやすい良い国なのです。」というアピールをしようとしないのか?東北は被災で土地や住居・職を失った人々が数多くいる。しかし復興支援金はやっと閣議決定された(4兆円)。しかも財源確保のために増税との意見あり。いやいや、まずは特別会計枠をオープンにして今ある税金で考えようよ。そうしないと結局「お金の循環」は小さくなる。しかもその循環ゲームに東北の業者や市民が加わる保障もない。おかしいよ。

子供みたいな事をいうかもしれないが、トランプや麻雀だって、一旦清算(ゲームオーバー)してカードや牌・点棒を配りなおすではないか。それは勝った者が勝ちすぎないために施されるルールであり、なるべく多くの人がゲームに参加できるようにするためだ。清算時だって「あぁ、まぁこんな程度でいいよ。あとは要らないから」なんて勝者が言う事が美学だったりするんじゃないのかね?丼勘定の美学。後輩に対する先輩の心。僕は今の日本で行われている資本主義はとても排他的であり、かつ飲み会の清算を1円単位で割り勘しようとする、同じ立場の者同士が行う『何ともせせこましいお金のやり取り』のような気がして仕方がない。金持ちに限って子供手当や高校無償化(確かに高校無償化は僕も違和感あるが)などを「バラマキ」なんて言う。いいじゃないか。市民の資産なのではないのか?困った人に与えて皆でゲームを分かち合う事が何故バラマキなのか?僕は今問題視されている年金なども合わせて、本気でベーシックインカム制度を導入すべきではないかと考え始めている。皆が細やかな幸せを感じて、笑顔でいられる世の中が一番望ましい世界だと思うのだが。

あぁ、やめた。今の僕には何だか負け犬の遠吠えを言っているように思えてきた。

終焉

何をどういう風に書いて良いのやら。
僕が出向している先の会社が、来月9日をもって倒産し、競合であった会社に事業譲渡される事が今日の午後4時に発表された。僕は社会人歴22年目だが、ずっと同じ業種に関わってきた。入社6年目の1996年1月に僕が所属していた部署・及び関連する営業部隊・開発・そして販売店2社が合併し、僕が今所属(出向)している会社が設立された。その時点で既に業界ではコンピュータ及び専用ソフトウェアの設備投資は飽和状態にあり、営業部の売り上げも落ち込んでいたので、前途洋々の会社設立というよりむしろ「不採算事業の切り離し」のようなものだった。そんな中で当時の時流だったMicroSoftの戦術にあやかり、Windowsでの業務システムを淡々と作り上げてきた。「業務を知らない」「無知」「使えないAP」などと叩かれながら15年。そんな中でもそれなりに業界では知られた存在ではあったし、3000社以上のお客さんから使われていた。でもやっぱりそういう中で自分達に甘えや驕りがあったのだと思う。公共事業が削減されたという逆風はあったにはあったが、それだけが理由ではない。出向先の会社を繁栄させられなかったのだから、僕は役目を果たせなかったのだ。全ての事業譲渡なので雇用は全員確保されるのはせめてもの救いだ。負け犬のような気分だな。
自分が無力だと感じたの3.11後だった。国際航業は津波被災マップを公開したし、全国の有志はGoogleMapなどを利用して炊き出しマップを作ったりしていた。でも僕たちは何も提供出来なかった。同じ地図に関わる仕事なのに。結局は、自分の目の前の仕事のみ仕事だと思い込んで、何か新しい物を模索しようという行動が不足していたんだ。

くやしいなぁ。

でも今何を言ってももう遅い。書いても何もならないが、この思いを今日ブログに刻んでおきたかった。

2011年5月6日金曜日

数値や規約に固執すべきなのか?

こんな事をブログに書いたところで状況は何も変わらないのだが、思っている事を書きたい。

まず、福島県内の小学校や幼稚園の校庭利用基準を20mSV/年に引き上げられた件に関して。僕の個人的意見は、20mSv/年はとてもイメージとしてとても大きな数字で、日本人の普段の生活が及ぼす放射線量が年間2mSv~3mSvと言われているので、その7~10倍の数値設定だ。いくら医学的に影響が証明されていないからといって、今までほぼ0だったものがそんな数値に置き換えられるのはどうか?と思う。しかし!である。結局こんな数値論を語ったところで(5mSvか10mSvか20mSvか?など)それは個々人が(特に福島県民が)どうその数値を捉えるか?という話に過ぎず、その対象外(福島県民以外)の人間はその数値に対してあーだこーだ言っても始まらないのだ。今、子供を持つ家庭の福島県民の方々に我々がすべき事は

・疎開できる場所を多く提供する。
・疎開しても皆が協力して支える事を約束する。
・疎開した先での雇用の場を皆で協力して生み出す。
・疎開した人を差別するような愚かな行為を断じて許さない。

など、「子供は疎開する事が大前提」という事を強くメッセージ化し、かつその実現に向けた行動を少しでも行う事だと思うのだ。でないと、結局は福島の方々は疎開を選ばない。その位に、その生まれ育った地域に対する愛情は強いのだ。また今まで培ってきた生活のサイクルを崩したくないのだ。僕の義父の実家が福島の南相馬市で、福島原発から20km~30km圏内らしい。しかし一時的に避難したそうだが今は戻ってしまった。いくら親戚が説得しても無駄らしい。高齢(75歳前後)だという事もあり、もう福島から離れたくないようだ。僕の実家の母(千葉で1人暮らし)も、福島県民ではないが状況は似ている。いくら一緒に暮そうと説得したり、長野の義兄が「来てください」と言っても絶対に千葉から離れない。その地域への愛情・自分の家への愛情なのでしょう。
でも、それを充分理解した上でも、しかし子供は別だと思うのですよね。なので兎に角疎開が前提にして、疎開できない外部要因を無くす事が先決だと思うのです。それが出来なければ、数値の規定が20だろうが30だろうが実質同じだと思うのです。疎開の受け入れ先も、少しずつ各自治体で用意できているみたいですね。「貴方の愛する地域から離れる事、仕事の糧を無くして不安な気持ち・絶望感は充分察します。しかし今少しでも放射線量が子供に及ぼす影響が不安なら、思い切って疎開して下さい。」というような強いメッセージを出し、受け入れ先の住民は温かく被災者の方々を迎え入れる事が大切なのではないでしょうか?20mSvうんぬんではなく気持ちとしては子供を疎開させたい親は多いと思うのです。

また、先日の朝生で「職を失った方々への職業トレーニングが実施されているが、隣で瓦礫撤去など行っている傍らで、疑問を感じながら『挨拶』や『名刺の授受』などのビジネスマナー講習を行っていた。」と言っていた。小野寺議員は「講習内容に『ボランティア・地域活動』などを記載していれば、隣で行っている作業に参加する事ができる」と発言されていたが、僕は「そういうレベルの問題なのか?」とつい笑ってしまった。これは政治家や厚生労働省(?)の役人さん方の責任ではないよ。個々人が単に「今はこんな規約に基づいて行動すべきではない」と考えて実践すべきなのだと思う。というか、常識じゃないのか??そんな事。何でもかんでも「規則がこうなっている事がけしからん」だの「政治家や役人が無能だ」だの、こんな非常時には、そんな事言う前にできる事が沢山あるのではないか?と思うのは僕だけでしょうか。

2011年5月3日火曜日

Andy Mccoy♪ ~薬と酒まみれ~

 Andy Mccoy(アンディ・マッコイ)である。元ハノイロックスのギタリストだ。写真の左側の人である。僕の大好きなギタリストの一人だ。何故Andy Mccoyかというと、最近発売されたMcheal Monroe (マイケル・モンロー:写真右)の新譜『Sensory OverDrive』 の出来が中々ヨロシイ♪からだ。あれ?何故マイケルじゃないのかって?そりゃあ、俺がひねくれ者だからだ。

アンディのハノイロックス以外の活動を、大きく3つに分けて書こうと思う。まずは僕がアンディの活動の中で「このバンドは良かった!」と思うCherryBobmzから。アンディがヴォーカルの女性(アニタ?忘れた笑)を飛行機の中でナンパしてできたバンドで、2枚のシングルと1枚のライブアルバムを発売して「これからじゃん!」と思っていたらそのヴォーカリストが有名ロッカー(誰だったっけ?笑)と駆け落ちして解散したorzという、何ともいい加減な始まり方で最後もいい加減なバンドだった。しかし曲は良かったよ。僕は当時ハノイロックスより好きだったかもしれない。不思議な甘酸っぱさのあるメロディを奏でるバンドでした。





その後、彼はイギーポップのツアーにギタリストとして参加したり、シューティング・ギャラリーなんていうバンドを組んだりしていたが(1枚のアルバムを発表し、すぐ解散)、その他の期間は淡々とソロ活動を行っていた。彼の世界観は本当に唯我独尊で、何とも味があり怪しい雰囲気の音楽を奏でていた。彼の音楽には酒と薬の匂いがプンプンして(俺は薬なんてした事ないけどね(笑))、まぁ受け付けない人は全く受け付けないと思うけど、僕の心はメチャメチャ鷲掴みにされましたとさ♪





そして2003年にハノイロックス再結成という、僕にとっては奇跡の復活を遂げてくれた。3枚の作品を残した後、2008年(2009年?)に惜しくも解散した。今アンディはどのような活動を行っているのかも知らない。地元フィンランドで地道に活動しているようだが、よく分からん。下はローリングストーンズの有名曲『Wild Horses』。しかし、この『Wild Horses』をコアなストーンズファンやミックジャガー本人が聴いたらどう思うだろうね(笑)

地元の小さなチャリティコンサート

 先週土曜日(4/30)に、埼玉県戸田市の後谷公園という所で地元有志の楽団による東日本大震災復興チャリティーコンサートが行われた。僕の妻が吹奏楽の楽団に参加しており、今回のコンサートに出演するという事で、僕も子供とともに見に行った。 妻の楽団は震災の後「みんな練習をする気にならない」という理由で自粛していたのだが、つい2週間前から活動を再開した。クリスマスの定期演奏やお祭り・チャリティー・小学校などへの参加など地域に密着した活動をしていた事もあり「えー!?確かに自粛する気持ちは分かるけど、いい活動していたんだし、また再開すべきだよ!」と何度か言っていたので、練習再開は喜ばしい事だと思っていた。その再開の理由は、このチャイティコンサートにあったらしい。やるじゃん!戸田市の市長さん(神保市長)や議員さん(さいとう直子議員)など、普段から地元楽団への理解がある地方議員の方々もいらっしゃる。こういう議員さん方との繋がりがあると、政治も身近に感じてくる。 肝心の演奏も、参加された楽団全て良い演奏を聴かせてくれました。被災者の方々の大変さに対して何か直接的に役立つ行動ではないのかも知れないけど、細やかながら義捐金を集めて被災地に送るという気持ちも大切だと思う。この気持ちや行動を継続しなければいけないな、と一国民として思いました。残念だったのは、子供が併設する公園で走り回って遊んでいたのでゆっくり演奏が聴けなかった事で(T_T)、それも小さい子供を持つ親としては仕方がないかな、と。  なお、写真は「管打楽器隊まかろん」の皆さんです。何となく写りがいいので?載せてしまいました。あー、俺も楽器何か始めようかな~。

youtube に動画が投稿されていた。へ~♪