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2012年6月30日土曜日

紫陽花革命20120629


先週に引き続き、今週も首相官邸前で行われた原発再稼働への抗議行動「紫陽花革命」に足を運んできた。正直言って、僕の性分にデモは合わないので、今週はどうしようか悩んだのだが、野田総理の発言に驚きと怒りを感じたので参戦した。消費税増税法案に反対の意を示した57名の事に対する発言である。

『政党の決めた党議に反する行為を行なった者には、厳しく対処する』

この人には弱い立場の人の気持ちは分からないのだろうと思った。今更ながら。

全体の社会保障・日本のあり方を討議する事を横に置き、かつ税制は消費税だけを拾い上げ増税したにも関わらず、心ある議員が反対した事を党議拘束違反と放言する。厳しく対処されるべきは賛成議員とあなた自身だろう。

国会議事堂前が凄い事になっているというツイートを見て、JR有楽町から歩いて国会議事堂前まで行くことにした。上の写真はその歩いている途中で偶然見かけて撮影したものです。

歩いている間にすれ違う人達・テニスコートでテニスを興じている人達を横目に見ながら、身近に起きているこのデモを知っているだろうにこの温度差は何?と少し可笑しくなった。こんな事を言っては何だが、彼らも原発に対する自分の意見くらいはあるだろうに。それともこういうデモ行動は昔のように「奇特な人達の活動行為」くらいに思っているのだろうか?まぁそれも仕方ない。これが現実なのだから。

人数はよくわからないが、先週よりは増えていたように感じた。主催者発表は8万人だそうだ。うーん。。。。小さいお子さん連れの方・若者・年輩の方々・いろいろな方々の顔と声がそこにあった。多くの人達は小さな声で「再稼働反対。原発反対」と言っていた。逆に僕にはその小さな声がリアルに感じた。みんな僕と同じで、デモなんて来た事もない人達が大多数で、だけど今回の再稼働の道理の無さに声を上げなければこのまま流されるという思いで勇気を振り絞って来た人達なんだろうと思ったからだ。






このムーブメントはまだまだ続くだろう。それだけではなく、もっと多くの僕のような一般人が押し寄せてくると予感する。今日、この抗議活動を見て、野田総理は「おおきな声だね」と他人事のように感想を述べ、仙谷氏に至ってはは「大した事はない」と言い放ったらしい。愚かな人達だ。権力のあぐらをかくと、選挙前に「国民生活が第一」などと調子のいい事を言いながら、いざ一部の、いや大多数の国民の声を代表する叫びを聞いても国民の声とは届かないらしいな。いいだろう。では僕のような名もない一般人がこのように現実に起きているこの行動を拡散しよう。その声を聞くことにより目覚める人達を増やす事にしよう。

驕れるものは、地べたに這い蹲るがいい。

2012年6月23日土曜日

紫陽花革命

今日、生まれて初めてデモに行ってきました。正確には「デモの場に居合わせた」という所でしょうか。今まで、どうしてもデモへの参加には何か引っかかるものがありました。集団で同じセリフを叫び合う事に対する抵抗と言ったらいいのでしょうか?それとも、デモのテーマから外れた事(例えば小沢一郎氏を総理にしろ、みたいな崇拝者の声など)を被せられられる事への反発でしょうか?どうしても参加に踏ん切れませんでした。しかし実は心苦しいところもありました。Twitterなどで政治などへの言葉汚いセリフなどをついつい吐いてしまっていたので、デモに参加しないと自分は結局は口だけで行動を示さない人間だという意識もあったからです。

今回は、自分なりに決心して行きました。あまりにも再稼働に対しての説明が不十分だと感じたからです。(ちなみに僕は原発再稼働も反対ですが、どちらかと言えば消費税増税の方が罪深いと思っていますが。。。)

会社を19時時過ぎに出て、国会議事堂前に着いたのが19時40分頃でした。Twitterで「参加者が4万人を超えた!」と流れていたので「凄いことになっているな」と予想してはいたのですが、駅の改札を抜けて出口に近づいたとき、そこから聞こえてくる再稼働反対コールの凄さに驚きました。
出口を出ると、そこには僕の想像を超えた沢山の人達の叫びが爆発していました。



僕はデモの列に対して、道路を挟んで反対側にいたのですが、反対側にも人は沢山いて口々に再稼働反対を唱えていたので、その場にいる事にしました。

遅い到着だったので時間にして約20分。しかし僕には世の中の何かの変化が始まる雰囲気を十分に感じたので満足でした。

しかし、僕は単純に再稼働反対を唱えれば良い、という気にはなりません。

1.福島原発の収束に対処している人達が今もいる事は忘れてはいけないと思います。
その人達、特に若者に対する配慮の気持ちは必要ではないでしょうか?

2.先日、以前ボストンに住んでいた後輩から聞きました。
「日本は恵まれていますよ。僕はボストンに留学したとき、日常茶飯事で停電が起きるんです。そうすると、電話も混線するので電力会社に電話しても逆に怒られるんです。日本の電力会社の一定量で送電する技術は凄いものがありますよ。」
日本の電力会社の努力の恩恵を、我々の何気ない生活の中にも受けているのです。確かに電力会社の一部の人達には心ない人もいますが、それは電力会社に限った話でもないと思います。むしろその努力に敬意を示さなければならない方々のほうが多いのではないでしょうか?

3.僕たちも節電の努力はやはり必要なのです。(当然、無理をしない程度ですが。)工場や病院など、電気が途絶えると影響が大きい立場の人達もいます。まずはその人達が困らないように有限な資源を大切に使わなければいけないのです。僕のかみさんがついこの前に僕に言いました。「ウチは子供もみんな節電しているから、先月は電気代5000円だったんだよ。はい、無駄な電気は消して消して(笑)」彼女もはっきりとは言わないけれど、原発反対派。でもやらなければいけない事もわきまえていました。そう、僕たちも努力は必要なのです。

それに、原発事故で生じた汚染と、東北全般にまだ対処しきれず放置されている瓦礫とを混在して考えているのか、やみくもに瓦礫受け入れを拒否している人達もいます。僕はその考えが全くと言っていいほど理解できません。なので、「反原発派」と一緒に一括りにされるのは正直言っていやなのです。

そういう複雑な思いはありますが、またこの紫陽花革命(最近はそう呼ばれているらしい)に参加するかどうかは、ゆっくり考えてから決めようと思います。

最後に、今日のPM21:54からの報道ステーション(テレビ朝日系列)の内容は素晴らしかったと思います。紫陽花革命のみならず、陸前高田で前を向いて邁進している被災者の方々の報道も。




2011年6月13日月曜日

循環

原発問題について少し書こうと思う。ちょっと視点を変えて。
冷却水の循環がずっと必要だと語られていたよね。もう建屋も格納容器も破損した(圧力容器も破損しているが)状況では、その冷却水循環も無理になったようだが。なので今放水している水は、ダダ漏れな状態になっており汚染が外部に溢れる危険性を今も秘めているわけだが。しかし循環は冷却水だけではなく、『経済的』にも非常に重要な論点だと思うのだ。何故なら脱原発を実現するためには、それに代わる雇用の代替産業が必須だからだ。エネルギーの代替だけでは論議が不十分だと思うのだ。

ツイッターのTLを見ていて、特に福島県民の方々の中に「脱原発」の動きに醒めた意見を投稿する方々がいる。「放射線量は福島県全域が高いわけではない。なのに福島を一括りに語るのはやめろ!」「それにぶっちゃけここで生活してきたんだ。ならば生きていくためにどうすればいいっていうんだ!?」「避難しろっていうけど、そこで仕事があるのか?」などという気持ちなのだろう。僕も福島県民だとすると、そういう気持ちになるかもしれない。なので福島を一括りに語るのはやめたほうがいいよね。

では、実際に放射線物質に汚染された地域の場合はどうだろうか?原発で働いている方々もいるだろうし、農業や漁業に従事している方々もいるだろうし、一概に「避難せよ」「もう食べれない」「原発反対!」なんていう言葉を受け入れろとは言えないよ。戦争を体験した世代は貧しい時代を過ごしてきたので「少々の汚染なんてとやかく言うのは贅沢だ」なんて思っているかもしれない。

だから結局は「代替」を用意しないと話が進まないと思うのです。仕事しかり、住む場所しかり。そしてその選択は正しい汚染の数値を提示し乳幼児における危険を示した上で、自由選択という事になると思います。僕は原発は代替エネルギーを用意しながら少しずつ廃止すべきだと思うし、子供は避難すべきだと思うのだけど、その意見を押し付けるのはやはり酷なのではないかとも感じる。難しいよ。でも時間かけてもみんなで努力すべき事だよね。

岩手・宮城の被災者で、仕事を失った方々はまた別だ。彼らこそ代替産業を考えなければならない。しかしそれは地元にお金を自由裁量で落とさないと、他県業者がその復興費用を持って行ったら意味ないからね。なので高橋洋一氏が朝生で語っていたように「とにかく権限とお金をそのまま地方に渡して、後は責任が俺がとる!という政治主導が大切」という言葉につきるんじゃないかな。つまり復興に充てられたお金はその地方を循環するものにしなければならない、という事。

原発一つ考えても、今までのやり方を変えていくのは大変だね。でも脱原発は今がチャンスなので大方針を掲げて、原発従事者や被災者の気持ちを重んじながら少しずつ変えていく事が大切なのではないかな?と思います。6.11の脱原発デモを観ながら、その動きに賛同しつつもちょっと複雑な気持ちになったので書いてみました。うまくまとまらなかったけど。

2011年5月6日金曜日

数値や規約に固執すべきなのか?

こんな事をブログに書いたところで状況は何も変わらないのだが、思っている事を書きたい。

まず、福島県内の小学校や幼稚園の校庭利用基準を20mSV/年に引き上げられた件に関して。僕の個人的意見は、20mSv/年はとてもイメージとしてとても大きな数字で、日本人の普段の生活が及ぼす放射線量が年間2mSv~3mSvと言われているので、その7~10倍の数値設定だ。いくら医学的に影響が証明されていないからといって、今までほぼ0だったものがそんな数値に置き換えられるのはどうか?と思う。しかし!である。結局こんな数値論を語ったところで(5mSvか10mSvか20mSvか?など)それは個々人が(特に福島県民が)どうその数値を捉えるか?という話に過ぎず、その対象外(福島県民以外)の人間はその数値に対してあーだこーだ言っても始まらないのだ。今、子供を持つ家庭の福島県民の方々に我々がすべき事は

・疎開できる場所を多く提供する。
・疎開しても皆が協力して支える事を約束する。
・疎開した先での雇用の場を皆で協力して生み出す。
・疎開した人を差別するような愚かな行為を断じて許さない。

など、「子供は疎開する事が大前提」という事を強くメッセージ化し、かつその実現に向けた行動を少しでも行う事だと思うのだ。でないと、結局は福島の方々は疎開を選ばない。その位に、その生まれ育った地域に対する愛情は強いのだ。また今まで培ってきた生活のサイクルを崩したくないのだ。僕の義父の実家が福島の南相馬市で、福島原発から20km~30km圏内らしい。しかし一時的に避難したそうだが今は戻ってしまった。いくら親戚が説得しても無駄らしい。高齢(75歳前後)だという事もあり、もう福島から離れたくないようだ。僕の実家の母(千葉で1人暮らし)も、福島県民ではないが状況は似ている。いくら一緒に暮そうと説得したり、長野の義兄が「来てください」と言っても絶対に千葉から離れない。その地域への愛情・自分の家への愛情なのでしょう。
でも、それを充分理解した上でも、しかし子供は別だと思うのですよね。なので兎に角疎開が前提にして、疎開できない外部要因を無くす事が先決だと思うのです。それが出来なければ、数値の規定が20だろうが30だろうが実質同じだと思うのです。疎開の受け入れ先も、少しずつ各自治体で用意できているみたいですね。「貴方の愛する地域から離れる事、仕事の糧を無くして不安な気持ち・絶望感は充分察します。しかし今少しでも放射線量が子供に及ぼす影響が不安なら、思い切って疎開して下さい。」というような強いメッセージを出し、受け入れ先の住民は温かく被災者の方々を迎え入れる事が大切なのではないでしょうか?20mSvうんぬんではなく気持ちとしては子供を疎開させたい親は多いと思うのです。

また、先日の朝生で「職を失った方々への職業トレーニングが実施されているが、隣で瓦礫撤去など行っている傍らで、疑問を感じながら『挨拶』や『名刺の授受』などのビジネスマナー講習を行っていた。」と言っていた。小野寺議員は「講習内容に『ボランティア・地域活動』などを記載していれば、隣で行っている作業に参加する事ができる」と発言されていたが、僕は「そういうレベルの問題なのか?」とつい笑ってしまった。これは政治家や厚生労働省(?)の役人さん方の責任ではないよ。個々人が単に「今はこんな規約に基づいて行動すべきではない」と考えて実践すべきなのだと思う。というか、常識じゃないのか??そんな事。何でもかんでも「規則がこうなっている事がけしからん」だの「政治家や役人が無能だ」だの、こんな非常時には、そんな事言う前にできる事が沢山あるのではないか?と思うのは僕だけでしょうか。

2011年4月21日木曜日

原発が日本の現状を露にする --資本主義の歪み--

僕は大学を卒業し社会人となって22年目になる。21年の社会人生活の中で、公私に渡って多くの人達と出会う事ができた。その中で、ビジネスにおいて「この発言は如何なものか?」と思うような事を口にする人に出会う事がある。例えばこんな発言だ。
...その方がいらっしゃる地方に豪雨なので災害が起きたときなど...
「この度は大変な被害でしたね。どのような状況なのですか?」
「いやぁ、もうちょっと被害大きかった方が良かったね。これじゃあ災害復興の仕事も中途半端だよ。金にならないね。」
きっと発言している方は冗談のつもりなのだろう。そういう時は「あー、そうですか。」と適当にかわす事にしているが(きっと悪意はないという前提で)、しかし冗談にしてもこのような発言は道徳的にどうなんだろうと思います。僕が青臭いのだろうか?しかもこのような発言をする方は意外に多かったりする。冗談でも子供には聞かせたくないセリフだ。僕の知り合いで石油業界に勤務している知人がいて、2001年の9.11の直後にその知人に何気なく
「いやぁ、大変な事が起きたね。アメリカとアフガニスタンが戦争にならなければいいけど」と言ったら
「あ~、適当に爆弾落として終わりじゃない?まぁ人が死なない程度にさ。アメリカだって石油を安く手に入れたいだろうからさ。」
その時はあまりに意外な事を言われたのでビックリして怒りもできなかった。ビジネスによってかどうかよく分からないが、人の不幸に対しての感覚が鈍っているのであろうか?僕には理解できない感覚だ。

原発という巨大なプラント工事・燃料の重量に対して想像を絶する電力エネルギーを出力するによる費用対効果・電力会社が独占的である事による電気料金の高さ、収益の大きさ・巨額の広告料や裏金などでマスコミや政治家を利用したプロパガンタ。極端に言えば、金のためなら何でもやるという姿勢。最近で言えば、計画停電とは一体何だったのかと思う。もうかれこれ行われていない。これは一般家庭や企業努力の賜物か?いや、元々電力は足りていたと社民党党首・福島瑞穂議員はツイッターで書き込みしていた。ほんの一部の連中がこのようなふざけきった事を考えるのだろう、せめてこの大災害の最中である今はそう思いたい。でも人は何故、決して正しい行為とは思えない事に対してもビジネスという言葉で表現してしまうのだろうね。僕も回り回って、あるいは直接的に恩恵を被っている。公共事業に関わっている仕事に携わっているから。だからいつも思うのです。せめて明らかに無駄なものだけは公共事業投資して欲しくないと。でも日本には50を超える原子力発電所があり、電力は余っている。電力だけではない。地方には車もロクに走らない高速道路や、どう見ても必要性を感じない空港などを作り自然を失っているのが現実だ。
それでも人々の生活がある程度平たく豊かになれば、それはそれで良いのかもしれない。でも現実は違うよ。巨額の富を得たにも関わらず、一番重要な安全面・メンテナンスに関しては「費用対効果が見込めない」などという、単に数値的論理だけの空論で削減されるのだから。作成時に関しても災害の想定を高く見積もる事をせず、それを「コスト削減に成功した」などと表現して、富を一部の人間が握りしめているのだ。実作業者(主に下請け業者)はコスト削減されているのだから収入も少ない。しかし仕事がない(本来あるのだけど)地方に大型事業を持ってきて、その事業に携わる市民を少し潤す事で利権者は巨額の富を得て陰で笑っているわけだ。

しかし今回の福島原発の事故により、その歪みが露になった。その被害の収束を必死に行っている方々は下請け業者や自衛隊や消防隊の方々だ。僕は彼らの体を張った行為に心から感謝と尊敬とお詫びをするよ。電力供給を得ていた1人として正面から向き合わなければいけない。その反面、巨額の富を得ていた人達は表に出てきているのか?東京電力だけではないだろう?原子力保安院や安全委員会を責めていればいいのか?違うよ。もっと多くの人が直接的に関わっていたんじゃないのか?責任論を言ったところで災害が止まるわけではないが、せめてもう福島の悲劇を2度と呼ばないようにしようよ。原子力という人間のコントロールを超えた存在によって日本が無くなるかも知れないよ。

今日、こんな記事を見つけた。言葉を失います。

福島が殺される



2011年4月20日水曜日

原発が日本の現状を露にする --楽観論--

昨日の投稿の続き。今日は「楽観論」について書くことにする。(昨日の動画も下に添える)

1.佐藤栄佐久前福島県知事が外国特派員協会で会見

2.心からの叫び 元原発技術者菊池洋一さん中部電力静岡支店で訴えた

僕はこの楽観論は日本の至る所に蔓延っている主たる問題だと常々思ってきた。「事なかれ主義」「性善説」「なんとかなるさ」ざっとこんな言葉が頭に浮かぶ。要するに、実現するかどうかの裏付けがないまま事が進み、後付けで何とかしようと取り繕う姿勢だ。よくあるよね?
例えば僕が知人から聞いた話だ。新しい商品(業務パッケージ)に向けてのプロジェクトが発足された。本来ならばこのプロジェクトの発足時から技術者を入れておくべきだ。でないと本来工程表や稼働時期予測などができない。しかしこのプロジェクトは一部上層部(役員・株主)で希望的観測による発売時期目標が定められ、知人が参加した会合では関連会社を含めた大々的な発表会になっていた。そもそも商品のコンセプトも決まっていないのに、である。商品発売は10か月後!ダルマの目入れ式は粛々と進む。知人は絶対無理だと心の中で叫んでいたのだが、とても言い出せる状況にない。そして宴もたけなわの頃、1人の出席者が「ところで、10か月で大丈夫なの?」...『あの時無理だって言えば良かったんだ。今でも後悔している。俺たちが開発している商品は技術計算も多く含むので問題が生じると訴訟問題になるし、過去の商品でお客様から戴いていたご要望・開発者として実現させたい夢などもあったから。でも全体が突き進んでいるあの場では言えなかった。それに何の根拠もないが、(気合を入れて頑張れば何とかなるかも知れない)とも思ってしまった。精神論が出てしまったんだよね。』何とか回復可能な工数なら挽回できるが、そもそも商品コンセプトという一番大切なマップがない。営業を含めた商品構想会議もそう簡単にはまとまらない。個々の営業事情もあり、丁寧な議論とプレゼンを重ねれば時間がかかって当然だ。工期が差し迫るとソフト開発会社をあたりまっくて人員増員作戦。しかし新規参入のプログラマには商品コンセプトなどそうそう簡単には伝わらない。意図せぬ成果物。作っては修正。部長は「元々10人体制で工数1年なら、20人で半年に縮まるはずだ。」そんなに話はうまく進まない。構想・設計・新規技術の習得・作業者への伝達・検査・上司への辻褄合わせ的な状況報告。殆ど休みなし。度々続く徹夜の日々。結局、営業や技術者が反対するにも関わらず上層部に押し切られ発表後1年半で商品販売。商品が不安定なため市場の不評を買い、落ち着くまでに3年。知人は『2年あれば内容も品質も安定した商品が完成したと思う。あの頃は始めの期日に何とか間に合わせようと兎に角作る事にしたので、作業も混乱したし後戻りも多かった。初めて一緒に仕事する委託者に伝えるのは難しかった。それに多く蓄積していた要望も何とか入れた形の商品にしたかったから。でも何を言っても今となっては言い訳だけど。』

...これって僕の会社の事かって?...秘密だよ(笑)

「市場が今攻め時だから」「営業が売り玉がないと嘆いている」「ウチの商品は市場から陳腐化されていると思われてないかな?」営業の苦労・上層部の狙い・充分に理解する。僕も営業同行やお客さんへのサポート活動で痛いほど感じてきたから。でも出来ないものは出来ない。しかし実務者はそれを言い訳と自問自答する時があるのだ。そういう形で、何の根拠もない構想と希望的時期が有無を言わさぬ全体行動へと繋がり、理論武装だけでは止まらない強いうねりに流される。こういう経験をお持ちの方は世の中に多いと思うのだが。

...でも絶対してはいけない事なのだ。結局は品質を損ねるから...

このような話を、元原発技術者の菊池さんが語っていますね。僕は菊池さん他作業員のご苦労を痛いほど感じる。ジレンマがよく分かる。そのような問題を生み出すのは、よく実情を理解していない人の「楽観論」と、それを何とか実現しようとする実務者の「精神論」なのだと思います。しかもその楽観論の根拠が単なる金の話だとしたら、もう悲劇だ。

神保哲夫氏・宮台真司氏・青木理氏など「のマル劇トークオンデマンド」で「あえて最悪のシナリオを考える」という特集を組んだり、上杉隆氏が「まずは最悪の状態を想定してオフセットを大きくとり、徐々に狭める」という発言をしていた。彼らは「パニックを生む原因になる」とか「風評被害に繋がる」などと批判を受けたらしい。しかし僕は別に責められる行為とは思わない。むしろできる限りのシュミレーションを行う為に考えられうるシナリオを想定して其々に行動指針を定める事は重要な事で、単にその中で最悪と思う所をピックアップして基準を定めた話に過ぎない。想定外のアドリブ行動をなるべく回避するためにシュミレーションするのだから。自己の行動を安全にするためなのだから。
下らない例だけど、将棋だって相手の打ち手を想定しながら勝負するよね?麻雀だって手持ち13パイで勝負できるほど自分に自信が無かったら安パイ持っておくでしょ?それが最悪のシナリオ想定だよ。普段からやっている事じゃないか。

原発が日本の現状を露にする --大型工業地帯の盛衰--

僕は原発に対してこんなにも仰々しいタイトルほどの知識も無く、こんな事を書いて良いのかという疑問を自らに抱きながら、あえて書く事にした。
昨日・そして今日視聴した2つの動画がある。この2つの動画は、原発を通して日本の現状を様々な面で露にしてくれたと思っている。

1.佐藤栄佐久前福島県知事が外国特派員協会で会見

2.心からの叫び 元原発技術者菊池洋一さん中部電力静岡支店で訴えた

今日は「大型工業地帯の盛衰」について書いてみたい。「企業誘致」という言葉を聞く事がある。大企業や大型公共事業を誘致する事で地元に雇用と富を生み出し、”経済発展”する事でその地方の住民の生活を豊かにする事を目的にしたものだ。これは決して悪い事ではない。雇用を生み出すのだから喜ぶ住民も多いだろう。しかし大型であればあるほど、繁栄も大きければ衰退も大きい。
僕は3歳で千葉の君津市に福岡県から引越してきた。新日鉄に働いていた父の転勤のためだ。福岡だけでなく北海道からも君津に越してきた人達も多く、僕が住んでいた近くには地元住民よりも移住者の方が圧倒的に多かったように記憶している。社宅に住んでいた頃は、周りには福岡から転勤してきた家族が殆どで、僕は千葉に居ながら九州弁で過ごすという今から思えば不思議な環境で育った。新日鉄は当時物凄い勢いがあり、僕の家族は社宅(賃貸)から一軒家に住み替えてそれなりの暮らしをして来た。僕の父は製鉄業や地元の土地開発事業などに携わっており、農地・山を商業地・ゴルフ場などに変えていく様を自ら手がけていたと、父の葬儀の際参列して戴いた方々から聞いた。僕が引っ越してきた頃から、君津は見る見る内に変わっていった。僕もその様子を見て育った。
しかし僕が高校の頃位からだろうか、新日鉄は売り上げを下げてきた。今から思えば軍事産業の恩恵も受けていたんだろうね。工場の休止・閉鎖が少しずつ実施されるようになった。そして僕が大学に行く頃に大型のリストラが断行された。僕が小さい頃からお世話になった方々の何人かも対象になった。工場は不必要になったからといって何処かに譲る事もできないし、かと言って盛況な時は必要性もあり工場の規模は広がっていく。今は君津の社宅の一部はゴーストタウン化している。住む人もいない。少しずつ住宅街に変えようとしているみたいだが。
何事にも盛衰はあるもので、それ自体が悪いとは言えない。恩恵も受けた身なので悪いなんて言えない。でも大型化していけばいくほど衰退期の傷(リストラなど)は当然大きく、また残った使用しない工場は他の利用も難しく、農地や漁場にも戻らない。そして幼少期を過ごした僕の世代は、東京が近い事もあり、また元々地元民ではない為か多くは地元から離れていった。そうなると大きなゴーストタウンが出来上がるのだ。これは、経済成長に必死だった時代ならともかく今の時代には適合しないように感じる。もっと自然を重視し、不要な際には他利用が困難な産物を極力生まない事が重要だと思う。しかもこれから人口は確実に減少していく。地元が本当に必要な小さなコミュニティ企業を増やしていく事がこれから求められるのではないかと思う。

今、福島原発が地震と津波による災害で事故になりまだ事態の収束は向かえていない。それにも関わらず原発の新規増設が図られるような計画が噂されている。人口減少により電力需要も減る事が予想されているにも関わらずである。さすがにおかしいよね。それに原発である必然性もない。風力や太陽光などの自然エネルギー利用で良いではないか。僕は今の東北の悲劇を目の当たりにする状況下であるこの期に及んで必要なき公共事業に走ろうとする一部利権者の心理など考えたくもないのである。

2011年4月14日木曜日

今何が必要なのだろうか?

Twitterの投稿でのリンクから、JBPressのある記事を見る事ができた。

『災害派遣 現場自衛官から上がる悲痛な声』

読んでいて心苦しくなった。震災が起きてから、現地での救助・物資輸送・復旧作業に全力を挙げる自衛隊の方々や、福島原発の復旧作業を体を張って行っている作業員の方々には本当に頭が下がる思いです。言葉すら出て来ない。ただ「体を壊さぬように。そしてお願いします。」という気持ちのみ。このような過酷な作業を行っている方々がいるからこそ我々の生活が成り立つのだ、という事を改めて感じ得る。
本当に多くの義援金や物資も、国内外から届いているようだ。また自発的に被災地への支援行動を起こす人達やNPOの方々の話も聞いている。芸能人も数多く被災地に行って援助しているようだ。僕の義兄も、以前お世話になったという事で、長野から仙台方面まで車で2往復して灯油などを届けたと言っていた。3月に行ったNPOではガス会社の1社員が仕事で使うトラックに支援物資(食料・生活用品・水・医薬品など)を目いっぱい積んで、特にあてもなく福島の原発避難地域に向かって突っ込んでいった。聞くと「小さな子供がいる(1歳)ので、被災地の子供の事を思うといてもたってもいられない。」と言っていた。だから行くんだ、と。僕はトラックに一緒に荷物を積み込みながら本当に彼の事を誇らしく思った。「気を付けて!」と言うと「行ってきまーす」と大きな声をトラックの中から出していた。素晴らしい行動力。「人間力」ってこういうものなのでしょうね。それから比べれば僕なんてちっぽけな存在だ。何もしていないのだから。

一昨日・昨日と、「菅総理記者会見」「東京電力 清水社長記者会見」を観た。僕は御二方とも丁寧な受け答えをしていたと思います。今までの対応が本当に適切だったのか?という事も今は考えないようにしようと思う。それ位にみんな一生懸命やっているのだ。今後の見通しスケジュールなど、殆ど想定外な事象が起こっていて何とか処理しようとしている現状では言えないだろう。とにかく目の前の事を対処するしかないのだから。ジャーナリストの方々の中にはシビアな質問を投げかける方々もいた。「気持ちは分かるが、今聞くべき質問でもない内容もあるなぁ」と思いながら聴いていた。でも彼らは報道という仕事で必要だから質問をしている訳で、我々一般人は、その彼らに同調して評論家めいた事を言っても何もならないと思う。どんな些細な事でも、今を改善する行動や思考・提案など、みんなでするべきじゃないのかな、と。ただ一つだけ東電社長も菅総理も今後の原発について「発電所の再点検」は言っていたが「他の発電方法への置き換え」に関して言明しなかった事は残念でしたけどね。彼らは権限もあるわけだし、今の福島の状況を思えば「原発は無くす方向で」と強く言うべきだったのではないでしょうか?今言わなければまたこの議論は振り出しに戻りそうな気がするのだ。

2011年4月7日木曜日

音楽は心を洗う事ができるのか?

The Journal において今日、田中良紹さんの投稿が載せられていた。『天罰』というタイトルだ。 実際に地震・津波・そして原発事故の3重の苦しみを味わっている福島の方々に対してはこの言葉を使う事は申し訳なく思うが、しかし原発事故に関しては、特に関東地方住民にとってはこの事故は天罰だと僕も思う。元々は原子力発電所に対する「多くの人の無関心」がこの事故の奥深い原因にあると思う。僕もその1人だ。原子力爆弾による被爆を過去に受けていたにも関わらず、その苦しみも子供の頃から親や学校やテレビなので充分に教えられたのに、同じ原子力を使用する「発電所」に対しての危険度を理解しようともしていなかった。世界に原子力発電所を売る戦略には多少の違和感はあったが、しかし違和感止まりでそれ以上の深い考察もしなかった。作業員の被爆問題も知っていたが、「原子力発電所は安全だ」という言葉を鵜呑みにしていた。昨日、海水に高放射線量の汚水を大量に流したと政府及び東京電力は発表した。僕はこの事実のみを受け止める事にしている。それまでの対策に不備があったのかも知れない。しかし、このような事に及んだ本当の事実はその内に明かされるであろう。なので今は一時も早くこの原発事故が鎮静化する事を祈るとともに、実際に復旧作業を必死に行っている方々を称えながら、世界の方々に日本人はお詫びをしなければならないと思う。

優しい音楽を聴いて、そして心を洗おう。目覚めよう。日本人はエコノミック・アニマルになり過ぎたのだ。世界の環境を守るべく、1人の国際人として責任ある行動を取らなければならない。大きな海々が世界を繋いでいるのである。世界は一つなのである。環境汚染での「ガラパゴス化」はやめにしなければならない。