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2012年2月28日火曜日

おらほのラジオ体操♪

七ヶ浜で買ってきたCD「おらほのラジオ体操」が、家族に大変好評です。ラジオ体操第一の音楽に東北弁なまりの声がコラボレートします。子供も喜んでラジオ体操するし、我が家の運動不足解消にも貢献してくれます!

実はひそかなブームを呼んでいるらしく、Youtubeにも数々の動画が投稿されていて、専用のFacebookアカウントも用意されています。

石巻発の地域コミュニティ再生プロジェクトが作成しました。『「お国言葉」のラジオ体操が、地域住民の連帯感を高め、人と人とがつながるきっかけになれば』という願いが込められているそうです。

これ、全国版が出来るといいですな~。あれ、前にこういう全国版が何かあったなぁ。何だったっけ?忘れちゃった(^^;)

石巻の方々の力強さと偉大さを感じます。東北の復興の力となりますように。


七ヶ浜アゲイン

2月24日(金)PM11:00 秋葉原発の京成バス:東京下町七ヶ浜応援隊ツアー で、また七ヶ浜に行ってきました。昨年末に続きこれが2度目です。
バスに乗る事約8時間。今回は天候に恵まれず雪だったために参拝をせず直接ボランティアセンターに向かいました。ツアーの方が「ひょっとしたら松島の観光になるかも」と言っていたので心配していたのですが、「雪かきボランティア」としてボランティア活動を行う事ができました。せっかく行ったんだから、やはり少しでも活動したいですからね。中止とならず良かったです。今回は若い男性(学生・会社員?)が目立ちました。若い人たちの震災に関する支援への関心が強い事を実感し、嬉しくも思いました。

午前中は最寄のサッカー場、午後からは2時半より催し物が開催される会場の、ともに駐車場の雪かきとなりました。とにかく参加者の皆が黙々と作業を行うので、僕も負けていられないと作業しました。実作業時間は午前午後合わせて2時間程度。しかし皆の作業ペースが速いので、かなりの面積の雪かきが出来たのではと思います。

前回も感じたことですが、1人の1日の作業量などわずかなものです。しかし震災から延べ何万人ものボランティア参加者が訪れたとの事で、地元の方の「復旧から復興へ、少しずつ向かっている実感があります。」「震災直後は復興まで5年はかかると落胆していたが、2年半くらいで復興できるのではないか、という声も出始めた。」というお言葉を、ほんの少しですが嬉しく聞きました。まだまだ手つかずの場所も残っています。しかし地元の被災者の方々が前向きな気持ちになってくれるだけでも少しは力になれているのかな、と。

何だか七ヶ浜が好きになってきました。また行こうと思います。

ボランティアセンター内の写真を何枚か撮りました。

ボランティアセンターで人気のウサギちゃん







外の風景です。移動中に綺麗だったので撮ってみました。


今回のお土産は「おらほのラジオ体操」と、またまたストラップ。


がんばろう日本!東北復興!上の寄せ書きを見てみましょう。
瓦礫は受け入れようよ、みんな。

2011年12月13日火曜日

七ヶ浜に行ってきました (初めての東北ボランティア)

3月11日の震災後、初めて東北に行きました。ずっと以前から行こうと思っていたのですが、なかなか実行に移す事ができませんでした。自分でも情けなく思っていました。しかしこのままでは今年に悔いを残すと思い、今年中に必ず行こうと決めました。ボランティアバスの存在を知り、地元のボランティア保険に加入し、戸田市HPでリンクされていた「助けあいJAPAN」から見つけた宮城県七ヶ浜町へのボランティアツアーに参加しました。

恥ずかしい事に、実は参加前まで、七ヶ浜の事はほとんど知りませんでした。特に調べる事もなく、9日の23時に秋葉原駅前に集合しバスに乗り込みました。驚いたのは、意外にも若い女性の参加が多かったことでした。また僕より年輩と思える方々も多く参加されていました。次の日の作業があるので乗車後すぐに寝ました。隣に座った方に話しかけようかとも思ったのですが、何か迷惑にも思ったので話しする事もありませんでした。バスの中でツアー会社の方が「明日は天気も崩れることはなさそうです。」と仰った事にホッとしました。天候不良なら単なる観光になる、とも事前に聞いていたからでした。それだけは正直嫌でした。確かに観光も被災地への支援の力添えになるかとも思うのですが、僕の目的はあくまでボランティアだったので。


バスは現地のボランティアセンターが空く時間より遥かに早く七ヶ浜に到着し(朝7時位)、ボランティアセンターに行く前に毘沙門堂へと向かいました。現地の方と思える(補助?)運転手の方が「ボランティア現地での写真撮影は禁止ですが、毘沙門堂から見える風景は撮影して構いませんので楽しんでください」と仰いました。その「ボランティア現地での写真撮影は禁止ですが」の意味がその時は正直ピンと来ませんでした。早く復興するようお参りし、そこから見える風景を撮影しました。



バスはボランティアセンターに向かいました。その車中、先程の運転手の方が淡々と語ります。
「七ヶ浜は入り組んだ湾の形をしており、その影響もあって津波の高さは15mから16mにもなるものでした。」
「海沿いの低い土地に立てた家は津波にほとんど流されてしまいました。高台にある家は津波の被害を受けず、はっきりと明暗を分けてしまいました。」
「震災が起きてから9ヶ月経ちますが、今だ手つかずの場所も残っています。」

そして僕の目の前に津波の被害を受けた町の様子が見えてきました。その時、先ほどの「現地での写真撮影は禁止」の意味がわかりました。東北に来る前に写真やテレビなどで被災の様子を見ていたのですが、実際に目の前にその光景が広がると、言葉が出てきませんでした。そしてボランティアを目的とした人間がこの風景を安易に撮影してはならないと痛感しました。

家の基礎しか残っていない土地、気が遠くなる程に集積場所に積み上げられた瓦礫の山、流された車や壊れた栽培ハウスなどがそのまま置かれている農地、津波で削られたと思える法面。

震災後、9ヶ月が経ちました。その間、現地の方々やボランティアの方々・自衛隊の方々などの努力によりここまでの瓦礫が撤去され、ヘドロなども取り除く事ができたのでしょう。しかしまだ手つかずの場所があるのです。それだけ震災の被害は凄まじいものだったのだと想像できます。現地の方々の悲しみも僕の想像を超えるものでしょう。

ただただバスの中から見える目の前の光景に唖然とするだけでした。

ボランティアセンターでは、その日に要望されているニーズをボランティア参加者の誰に振り分けるかの「マッチング」という作業が朝になされます。その日は全国から僕たちツアーメンバー30数名を含め、総勢350人以上の参加者が集結していました。その参加の多さも素晴らしいのですが、このメンバーと作業をマッチングさせるセンターのご苦労も大変なものと思います。

そして僕たちは今回「松林クリーン大作戦」と命名された海沿いの松林の瓦礫撤去作業を行いました。海沿いにも関わらず、引き潮で住宅地から流されたと思われる角材などの瓦礫を並行して走る道沿いに運び、集まった瓦礫をトラックの荷台に積み込む作業でした。

それを、午前10時30分から1時間。そして午後1時から45分。

するとボランティアセンターの方が「東京下町応援隊の方ですよね?別の事をしません?(笑)」と話しかけてきました。松の樹の根っこの掘り起こしでした。伐根というそうです。津波で折れてしまった松の樹の残った根をチェーンソーで切り取るのですが、その前に土で埋まっている根を掘り起こすのです。

これが大変な作業でした。悔しいけど全然掘り起こせません。殆ど掘り起こせないまま、作業時間終了の2時30分になってしまいました。

今回、ボランティアに参加して感じたことを書きます。

1.個人の力、というより僕の力の不甲斐なさ・無力さを痛感しました。
2.復興などと言う言葉以前の状況でした。まだまだその前にやるべきことは沢山残っています。
3.参加者誰一人、無駄な言葉を話す人はいませんでした。みんなが黙々と目の前の作業をこなしていました。

そして、最後に僕たちを担当してくれたリーダーの方の言葉が印象的でした。

「僕は東京から参加しているのですが、東京と被災地には大きな温度差がある事を感じます。」

この言葉の意味は大きいと思います。

ボランティア(というより人手)が絶対的に不足しているように感じました。しかしボランティアセンターのマッチングという作業を考えると、そうそう安易に増えてもうまく事が運ぶとも言い切れないようにも思います。難しい問題です。しかしはっきり言える事は、もう行政や政府の力量を超えた状況で、できるかぎりの応援しなければいけない現状なのです。
僕も初めての参加だったので大きなことは言えません。またボランティアに参加できなくても、また支援できなくても思いやる気持ちはきっとあると思います。しかし中には被災地の瓦礫を受け入れたくないという意見もあるそうです。放射能汚染があるないに関わらずです。僕はそういう人達に言いたい。「被災地に行って、想像を絶する量の瓦礫の山を見てから意見を言って欲しい」と。僕は福島の瓦礫だって全国各地で少しは受け入れるべきだと思います。この状況を一部地域に放置して良いのか?と訴えたい。

ボランティアセンターでは、バンダナとストラップ・そしてラーメンを購入しました。少しは支援の力になりたかったからです。また、ボランティアセンター横のNPOの建物にかかっていた寄せ書き入りのウィンドブレーカーが印象的でした。





また東北には行こうと思います。



2011年6月13日月曜日

循環

原発問題について少し書こうと思う。ちょっと視点を変えて。
冷却水の循環がずっと必要だと語られていたよね。もう建屋も格納容器も破損した(圧力容器も破損しているが)状況では、その冷却水循環も無理になったようだが。なので今放水している水は、ダダ漏れな状態になっており汚染が外部に溢れる危険性を今も秘めているわけだが。しかし循環は冷却水だけではなく、『経済的』にも非常に重要な論点だと思うのだ。何故なら脱原発を実現するためには、それに代わる雇用の代替産業が必須だからだ。エネルギーの代替だけでは論議が不十分だと思うのだ。

ツイッターのTLを見ていて、特に福島県民の方々の中に「脱原発」の動きに醒めた意見を投稿する方々がいる。「放射線量は福島県全域が高いわけではない。なのに福島を一括りに語るのはやめろ!」「それにぶっちゃけここで生活してきたんだ。ならば生きていくためにどうすればいいっていうんだ!?」「避難しろっていうけど、そこで仕事があるのか?」などという気持ちなのだろう。僕も福島県民だとすると、そういう気持ちになるかもしれない。なので福島を一括りに語るのはやめたほうがいいよね。

では、実際に放射線物質に汚染された地域の場合はどうだろうか?原発で働いている方々もいるだろうし、農業や漁業に従事している方々もいるだろうし、一概に「避難せよ」「もう食べれない」「原発反対!」なんていう言葉を受け入れろとは言えないよ。戦争を体験した世代は貧しい時代を過ごしてきたので「少々の汚染なんてとやかく言うのは贅沢だ」なんて思っているかもしれない。

だから結局は「代替」を用意しないと話が進まないと思うのです。仕事しかり、住む場所しかり。そしてその選択は正しい汚染の数値を提示し乳幼児における危険を示した上で、自由選択という事になると思います。僕は原発は代替エネルギーを用意しながら少しずつ廃止すべきだと思うし、子供は避難すべきだと思うのだけど、その意見を押し付けるのはやはり酷なのではないかとも感じる。難しいよ。でも時間かけてもみんなで努力すべき事だよね。

岩手・宮城の被災者で、仕事を失った方々はまた別だ。彼らこそ代替産業を考えなければならない。しかしそれは地元にお金を自由裁量で落とさないと、他県業者がその復興費用を持って行ったら意味ないからね。なので高橋洋一氏が朝生で語っていたように「とにかく権限とお金をそのまま地方に渡して、後は責任が俺がとる!という政治主導が大切」という言葉につきるんじゃないかな。つまり復興に充てられたお金はその地方を循環するものにしなければならない、という事。

原発一つ考えても、今までのやり方を変えていくのは大変だね。でも脱原発は今がチャンスなので大方針を掲げて、原発従事者や被災者の気持ちを重んじながら少しずつ変えていく事が大切なのではないかな?と思います。6.11の脱原発デモを観ながら、その動きに賛同しつつもちょっと複雑な気持ちになったので書いてみました。うまくまとまらなかったけど。

2011年5月6日金曜日

数値や規約に固執すべきなのか?

こんな事をブログに書いたところで状況は何も変わらないのだが、思っている事を書きたい。

まず、福島県内の小学校や幼稚園の校庭利用基準を20mSV/年に引き上げられた件に関して。僕の個人的意見は、20mSv/年はとてもイメージとしてとても大きな数字で、日本人の普段の生活が及ぼす放射線量が年間2mSv~3mSvと言われているので、その7~10倍の数値設定だ。いくら医学的に影響が証明されていないからといって、今までほぼ0だったものがそんな数値に置き換えられるのはどうか?と思う。しかし!である。結局こんな数値論を語ったところで(5mSvか10mSvか20mSvか?など)それは個々人が(特に福島県民が)どうその数値を捉えるか?という話に過ぎず、その対象外(福島県民以外)の人間はその数値に対してあーだこーだ言っても始まらないのだ。今、子供を持つ家庭の福島県民の方々に我々がすべき事は

・疎開できる場所を多く提供する。
・疎開しても皆が協力して支える事を約束する。
・疎開した先での雇用の場を皆で協力して生み出す。
・疎開した人を差別するような愚かな行為を断じて許さない。

など、「子供は疎開する事が大前提」という事を強くメッセージ化し、かつその実現に向けた行動を少しでも行う事だと思うのだ。でないと、結局は福島の方々は疎開を選ばない。その位に、その生まれ育った地域に対する愛情は強いのだ。また今まで培ってきた生活のサイクルを崩したくないのだ。僕の義父の実家が福島の南相馬市で、福島原発から20km~30km圏内らしい。しかし一時的に避難したそうだが今は戻ってしまった。いくら親戚が説得しても無駄らしい。高齢(75歳前後)だという事もあり、もう福島から離れたくないようだ。僕の実家の母(千葉で1人暮らし)も、福島県民ではないが状況は似ている。いくら一緒に暮そうと説得したり、長野の義兄が「来てください」と言っても絶対に千葉から離れない。その地域への愛情・自分の家への愛情なのでしょう。
でも、それを充分理解した上でも、しかし子供は別だと思うのですよね。なので兎に角疎開が前提にして、疎開できない外部要因を無くす事が先決だと思うのです。それが出来なければ、数値の規定が20だろうが30だろうが実質同じだと思うのです。疎開の受け入れ先も、少しずつ各自治体で用意できているみたいですね。「貴方の愛する地域から離れる事、仕事の糧を無くして不安な気持ち・絶望感は充分察します。しかし今少しでも放射線量が子供に及ぼす影響が不安なら、思い切って疎開して下さい。」というような強いメッセージを出し、受け入れ先の住民は温かく被災者の方々を迎え入れる事が大切なのではないでしょうか?20mSvうんぬんではなく気持ちとしては子供を疎開させたい親は多いと思うのです。

また、先日の朝生で「職を失った方々への職業トレーニングが実施されているが、隣で瓦礫撤去など行っている傍らで、疑問を感じながら『挨拶』や『名刺の授受』などのビジネスマナー講習を行っていた。」と言っていた。小野寺議員は「講習内容に『ボランティア・地域活動』などを記載していれば、隣で行っている作業に参加する事ができる」と発言されていたが、僕は「そういうレベルの問題なのか?」とつい笑ってしまった。これは政治家や厚生労働省(?)の役人さん方の責任ではないよ。個々人が単に「今はこんな規約に基づいて行動すべきではない」と考えて実践すべきなのだと思う。というか、常識じゃないのか??そんな事。何でもかんでも「規則がこうなっている事がけしからん」だの「政治家や役人が無能だ」だの、こんな非常時には、そんな事言う前にできる事が沢山あるのではないか?と思うのは僕だけでしょうか。

2011年4月21日木曜日

原発が日本の現状を露にする --資本主義の歪み--

僕は大学を卒業し社会人となって22年目になる。21年の社会人生活の中で、公私に渡って多くの人達と出会う事ができた。その中で、ビジネスにおいて「この発言は如何なものか?」と思うような事を口にする人に出会う事がある。例えばこんな発言だ。
...その方がいらっしゃる地方に豪雨なので災害が起きたときなど...
「この度は大変な被害でしたね。どのような状況なのですか?」
「いやぁ、もうちょっと被害大きかった方が良かったね。これじゃあ災害復興の仕事も中途半端だよ。金にならないね。」
きっと発言している方は冗談のつもりなのだろう。そういう時は「あー、そうですか。」と適当にかわす事にしているが(きっと悪意はないという前提で)、しかし冗談にしてもこのような発言は道徳的にどうなんだろうと思います。僕が青臭いのだろうか?しかもこのような発言をする方は意外に多かったりする。冗談でも子供には聞かせたくないセリフだ。僕の知り合いで石油業界に勤務している知人がいて、2001年の9.11の直後にその知人に何気なく
「いやぁ、大変な事が起きたね。アメリカとアフガニスタンが戦争にならなければいいけど」と言ったら
「あ~、適当に爆弾落として終わりじゃない?まぁ人が死なない程度にさ。アメリカだって石油を安く手に入れたいだろうからさ。」
その時はあまりに意外な事を言われたのでビックリして怒りもできなかった。ビジネスによってかどうかよく分からないが、人の不幸に対しての感覚が鈍っているのであろうか?僕には理解できない感覚だ。

原発という巨大なプラント工事・燃料の重量に対して想像を絶する電力エネルギーを出力するによる費用対効果・電力会社が独占的である事による電気料金の高さ、収益の大きさ・巨額の広告料や裏金などでマスコミや政治家を利用したプロパガンタ。極端に言えば、金のためなら何でもやるという姿勢。最近で言えば、計画停電とは一体何だったのかと思う。もうかれこれ行われていない。これは一般家庭や企業努力の賜物か?いや、元々電力は足りていたと社民党党首・福島瑞穂議員はツイッターで書き込みしていた。ほんの一部の連中がこのようなふざけきった事を考えるのだろう、せめてこの大災害の最中である今はそう思いたい。でも人は何故、決して正しい行為とは思えない事に対してもビジネスという言葉で表現してしまうのだろうね。僕も回り回って、あるいは直接的に恩恵を被っている。公共事業に関わっている仕事に携わっているから。だからいつも思うのです。せめて明らかに無駄なものだけは公共事業投資して欲しくないと。でも日本には50を超える原子力発電所があり、電力は余っている。電力だけではない。地方には車もロクに走らない高速道路や、どう見ても必要性を感じない空港などを作り自然を失っているのが現実だ。
それでも人々の生活がある程度平たく豊かになれば、それはそれで良いのかもしれない。でも現実は違うよ。巨額の富を得たにも関わらず、一番重要な安全面・メンテナンスに関しては「費用対効果が見込めない」などという、単に数値的論理だけの空論で削減されるのだから。作成時に関しても災害の想定を高く見積もる事をせず、それを「コスト削減に成功した」などと表現して、富を一部の人間が握りしめているのだ。実作業者(主に下請け業者)はコスト削減されているのだから収入も少ない。しかし仕事がない(本来あるのだけど)地方に大型事業を持ってきて、その事業に携わる市民を少し潤す事で利権者は巨額の富を得て陰で笑っているわけだ。

しかし今回の福島原発の事故により、その歪みが露になった。その被害の収束を必死に行っている方々は下請け業者や自衛隊や消防隊の方々だ。僕は彼らの体を張った行為に心から感謝と尊敬とお詫びをするよ。電力供給を得ていた1人として正面から向き合わなければいけない。その反面、巨額の富を得ていた人達は表に出てきているのか?東京電力だけではないだろう?原子力保安院や安全委員会を責めていればいいのか?違うよ。もっと多くの人が直接的に関わっていたんじゃないのか?責任論を言ったところで災害が止まるわけではないが、せめてもう福島の悲劇を2度と呼ばないようにしようよ。原子力という人間のコントロールを超えた存在によって日本が無くなるかも知れないよ。

今日、こんな記事を見つけた。言葉を失います。

福島が殺される



2011年4月20日水曜日

原発が日本の現状を露にする --楽観論--

昨日の投稿の続き。今日は「楽観論」について書くことにする。(昨日の動画も下に添える)

1.佐藤栄佐久前福島県知事が外国特派員協会で会見

2.心からの叫び 元原発技術者菊池洋一さん中部電力静岡支店で訴えた

僕はこの楽観論は日本の至る所に蔓延っている主たる問題だと常々思ってきた。「事なかれ主義」「性善説」「なんとかなるさ」ざっとこんな言葉が頭に浮かぶ。要するに、実現するかどうかの裏付けがないまま事が進み、後付けで何とかしようと取り繕う姿勢だ。よくあるよね?
例えば僕が知人から聞いた話だ。新しい商品(業務パッケージ)に向けてのプロジェクトが発足された。本来ならばこのプロジェクトの発足時から技術者を入れておくべきだ。でないと本来工程表や稼働時期予測などができない。しかしこのプロジェクトは一部上層部(役員・株主)で希望的観測による発売時期目標が定められ、知人が参加した会合では関連会社を含めた大々的な発表会になっていた。そもそも商品のコンセプトも決まっていないのに、である。商品発売は10か月後!ダルマの目入れ式は粛々と進む。知人は絶対無理だと心の中で叫んでいたのだが、とても言い出せる状況にない。そして宴もたけなわの頃、1人の出席者が「ところで、10か月で大丈夫なの?」...『あの時無理だって言えば良かったんだ。今でも後悔している。俺たちが開発している商品は技術計算も多く含むので問題が生じると訴訟問題になるし、過去の商品でお客様から戴いていたご要望・開発者として実現させたい夢などもあったから。でも全体が突き進んでいるあの場では言えなかった。それに何の根拠もないが、(気合を入れて頑張れば何とかなるかも知れない)とも思ってしまった。精神論が出てしまったんだよね。』何とか回復可能な工数なら挽回できるが、そもそも商品コンセプトという一番大切なマップがない。営業を含めた商品構想会議もそう簡単にはまとまらない。個々の営業事情もあり、丁寧な議論とプレゼンを重ねれば時間がかかって当然だ。工期が差し迫るとソフト開発会社をあたりまっくて人員増員作戦。しかし新規参入のプログラマには商品コンセプトなどそうそう簡単には伝わらない。意図せぬ成果物。作っては修正。部長は「元々10人体制で工数1年なら、20人で半年に縮まるはずだ。」そんなに話はうまく進まない。構想・設計・新規技術の習得・作業者への伝達・検査・上司への辻褄合わせ的な状況報告。殆ど休みなし。度々続く徹夜の日々。結局、営業や技術者が反対するにも関わらず上層部に押し切られ発表後1年半で商品販売。商品が不安定なため市場の不評を買い、落ち着くまでに3年。知人は『2年あれば内容も品質も安定した商品が完成したと思う。あの頃は始めの期日に何とか間に合わせようと兎に角作る事にしたので、作業も混乱したし後戻りも多かった。初めて一緒に仕事する委託者に伝えるのは難しかった。それに多く蓄積していた要望も何とか入れた形の商品にしたかったから。でも何を言っても今となっては言い訳だけど。』

...これって僕の会社の事かって?...秘密だよ(笑)

「市場が今攻め時だから」「営業が売り玉がないと嘆いている」「ウチの商品は市場から陳腐化されていると思われてないかな?」営業の苦労・上層部の狙い・充分に理解する。僕も営業同行やお客さんへのサポート活動で痛いほど感じてきたから。でも出来ないものは出来ない。しかし実務者はそれを言い訳と自問自答する時があるのだ。そういう形で、何の根拠もない構想と希望的時期が有無を言わさぬ全体行動へと繋がり、理論武装だけでは止まらない強いうねりに流される。こういう経験をお持ちの方は世の中に多いと思うのだが。

...でも絶対してはいけない事なのだ。結局は品質を損ねるから...

このような話を、元原発技術者の菊池さんが語っていますね。僕は菊池さん他作業員のご苦労を痛いほど感じる。ジレンマがよく分かる。そのような問題を生み出すのは、よく実情を理解していない人の「楽観論」と、それを何とか実現しようとする実務者の「精神論」なのだと思います。しかもその楽観論の根拠が単なる金の話だとしたら、もう悲劇だ。

神保哲夫氏・宮台真司氏・青木理氏など「のマル劇トークオンデマンド」で「あえて最悪のシナリオを考える」という特集を組んだり、上杉隆氏が「まずは最悪の状態を想定してオフセットを大きくとり、徐々に狭める」という発言をしていた。彼らは「パニックを生む原因になる」とか「風評被害に繋がる」などと批判を受けたらしい。しかし僕は別に責められる行為とは思わない。むしろできる限りのシュミレーションを行う為に考えられうるシナリオを想定して其々に行動指針を定める事は重要な事で、単にその中で最悪と思う所をピックアップして基準を定めた話に過ぎない。想定外のアドリブ行動をなるべく回避するためにシュミレーションするのだから。自己の行動を安全にするためなのだから。
下らない例だけど、将棋だって相手の打ち手を想定しながら勝負するよね?麻雀だって手持ち13パイで勝負できるほど自分に自信が無かったら安パイ持っておくでしょ?それが最悪のシナリオ想定だよ。普段からやっている事じゃないか。

原発が日本の現状を露にする --大型工業地帯の盛衰--

僕は原発に対してこんなにも仰々しいタイトルほどの知識も無く、こんな事を書いて良いのかという疑問を自らに抱きながら、あえて書く事にした。
昨日・そして今日視聴した2つの動画がある。この2つの動画は、原発を通して日本の現状を様々な面で露にしてくれたと思っている。

1.佐藤栄佐久前福島県知事が外国特派員協会で会見

2.心からの叫び 元原発技術者菊池洋一さん中部電力静岡支店で訴えた

今日は「大型工業地帯の盛衰」について書いてみたい。「企業誘致」という言葉を聞く事がある。大企業や大型公共事業を誘致する事で地元に雇用と富を生み出し、”経済発展”する事でその地方の住民の生活を豊かにする事を目的にしたものだ。これは決して悪い事ではない。雇用を生み出すのだから喜ぶ住民も多いだろう。しかし大型であればあるほど、繁栄も大きければ衰退も大きい。
僕は3歳で千葉の君津市に福岡県から引越してきた。新日鉄に働いていた父の転勤のためだ。福岡だけでなく北海道からも君津に越してきた人達も多く、僕が住んでいた近くには地元住民よりも移住者の方が圧倒的に多かったように記憶している。社宅に住んでいた頃は、周りには福岡から転勤してきた家族が殆どで、僕は千葉に居ながら九州弁で過ごすという今から思えば不思議な環境で育った。新日鉄は当時物凄い勢いがあり、僕の家族は社宅(賃貸)から一軒家に住み替えてそれなりの暮らしをして来た。僕の父は製鉄業や地元の土地開発事業などに携わっており、農地・山を商業地・ゴルフ場などに変えていく様を自ら手がけていたと、父の葬儀の際参列して戴いた方々から聞いた。僕が引っ越してきた頃から、君津は見る見る内に変わっていった。僕もその様子を見て育った。
しかし僕が高校の頃位からだろうか、新日鉄は売り上げを下げてきた。今から思えば軍事産業の恩恵も受けていたんだろうね。工場の休止・閉鎖が少しずつ実施されるようになった。そして僕が大学に行く頃に大型のリストラが断行された。僕が小さい頃からお世話になった方々の何人かも対象になった。工場は不必要になったからといって何処かに譲る事もできないし、かと言って盛況な時は必要性もあり工場の規模は広がっていく。今は君津の社宅の一部はゴーストタウン化している。住む人もいない。少しずつ住宅街に変えようとしているみたいだが。
何事にも盛衰はあるもので、それ自体が悪いとは言えない。恩恵も受けた身なので悪いなんて言えない。でも大型化していけばいくほど衰退期の傷(リストラなど)は当然大きく、また残った使用しない工場は他の利用も難しく、農地や漁場にも戻らない。そして幼少期を過ごした僕の世代は、東京が近い事もあり、また元々地元民ではない為か多くは地元から離れていった。そうなると大きなゴーストタウンが出来上がるのだ。これは、経済成長に必死だった時代ならともかく今の時代には適合しないように感じる。もっと自然を重視し、不要な際には他利用が困難な産物を極力生まない事が重要だと思う。しかもこれから人口は確実に減少していく。地元が本当に必要な小さなコミュニティ企業を増やしていく事がこれから求められるのではないかと思う。

今、福島原発が地震と津波による災害で事故になりまだ事態の収束は向かえていない。それにも関わらず原発の新規増設が図られるような計画が噂されている。人口減少により電力需要も減る事が予想されているにも関わらずである。さすがにおかしいよね。それに原発である必然性もない。風力や太陽光などの自然エネルギー利用で良いではないか。僕は今の東北の悲劇を目の当たりにする状況下であるこの期に及んで必要なき公共事業に走ろうとする一部利権者の心理など考えたくもないのである。

2011年4月14日木曜日

今何が必要なのだろうか?

Twitterの投稿でのリンクから、JBPressのある記事を見る事ができた。

『災害派遣 現場自衛官から上がる悲痛な声』

読んでいて心苦しくなった。震災が起きてから、現地での救助・物資輸送・復旧作業に全力を挙げる自衛隊の方々や、福島原発の復旧作業を体を張って行っている作業員の方々には本当に頭が下がる思いです。言葉すら出て来ない。ただ「体を壊さぬように。そしてお願いします。」という気持ちのみ。このような過酷な作業を行っている方々がいるからこそ我々の生活が成り立つのだ、という事を改めて感じ得る。
本当に多くの義援金や物資も、国内外から届いているようだ。また自発的に被災地への支援行動を起こす人達やNPOの方々の話も聞いている。芸能人も数多く被災地に行って援助しているようだ。僕の義兄も、以前お世話になったという事で、長野から仙台方面まで車で2往復して灯油などを届けたと言っていた。3月に行ったNPOではガス会社の1社員が仕事で使うトラックに支援物資(食料・生活用品・水・医薬品など)を目いっぱい積んで、特にあてもなく福島の原発避難地域に向かって突っ込んでいった。聞くと「小さな子供がいる(1歳)ので、被災地の子供の事を思うといてもたってもいられない。」と言っていた。だから行くんだ、と。僕はトラックに一緒に荷物を積み込みながら本当に彼の事を誇らしく思った。「気を付けて!」と言うと「行ってきまーす」と大きな声をトラックの中から出していた。素晴らしい行動力。「人間力」ってこういうものなのでしょうね。それから比べれば僕なんてちっぽけな存在だ。何もしていないのだから。

一昨日・昨日と、「菅総理記者会見」「東京電力 清水社長記者会見」を観た。僕は御二方とも丁寧な受け答えをしていたと思います。今までの対応が本当に適切だったのか?という事も今は考えないようにしようと思う。それ位にみんな一生懸命やっているのだ。今後の見通しスケジュールなど、殆ど想定外な事象が起こっていて何とか処理しようとしている現状では言えないだろう。とにかく目の前の事を対処するしかないのだから。ジャーナリストの方々の中にはシビアな質問を投げかける方々もいた。「気持ちは分かるが、今聞くべき質問でもない内容もあるなぁ」と思いながら聴いていた。でも彼らは報道という仕事で必要だから質問をしている訳で、我々一般人は、その彼らに同調して評論家めいた事を言っても何もならないと思う。どんな些細な事でも、今を改善する行動や思考・提案など、みんなでするべきじゃないのかな、と。ただ一つだけ東電社長も菅総理も今後の原発について「発電所の再点検」は言っていたが「他の発電方法への置き換え」に関して言明しなかった事は残念でしたけどね。彼らは権限もあるわけだし、今の福島の状況を思えば「原発は無くす方向で」と強く言うべきだったのではないでしょうか?今言わなければまたこの議論は振り出しに戻りそうな気がするのだ。

2011年4月7日木曜日

音楽は心を洗う事ができるのか?

The Journal において今日、田中良紹さんの投稿が載せられていた。『天罰』というタイトルだ。 実際に地震・津波・そして原発事故の3重の苦しみを味わっている福島の方々に対してはこの言葉を使う事は申し訳なく思うが、しかし原発事故に関しては、特に関東地方住民にとってはこの事故は天罰だと僕も思う。元々は原子力発電所に対する「多くの人の無関心」がこの事故の奥深い原因にあると思う。僕もその1人だ。原子力爆弾による被爆を過去に受けていたにも関わらず、その苦しみも子供の頃から親や学校やテレビなので充分に教えられたのに、同じ原子力を使用する「発電所」に対しての危険度を理解しようともしていなかった。世界に原子力発電所を売る戦略には多少の違和感はあったが、しかし違和感止まりでそれ以上の深い考察もしなかった。作業員の被爆問題も知っていたが、「原子力発電所は安全だ」という言葉を鵜呑みにしていた。昨日、海水に高放射線量の汚水を大量に流したと政府及び東京電力は発表した。僕はこの事実のみを受け止める事にしている。それまでの対策に不備があったのかも知れない。しかし、このような事に及んだ本当の事実はその内に明かされるであろう。なので今は一時も早くこの原発事故が鎮静化する事を祈るとともに、実際に復旧作業を必死に行っている方々を称えながら、世界の方々に日本人はお詫びをしなければならないと思う。

優しい音楽を聴いて、そして心を洗おう。目覚めよう。日本人はエコノミック・アニマルになり過ぎたのだ。世界の環境を守るべく、1人の国際人として責任ある行動を取らなければならない。大きな海々が世界を繋いでいるのである。世界は一つなのである。環境汚染での「ガラパゴス化」はやめにしなければならない。

2011年4月6日水曜日

3.11大震災 そして その後 Part3


今日もまた書き連ねてみようと思う。先週から今日までの事・そして今まで書いていないが印象に残っている事。
先週から「まずは自分に課せられた仕事をこなそう!」と気持ちを引き締めた。先週・今週にかけては、以前に比べ残業は減ったがその分朝の出社を早め、それなりに仕事に没頭した。そんな中で、先週水曜日に出向先の社長と在籍会社の役員に呼ばれ、ある重大な発表を聞いた。ずっと恐れていた事が現実になった。しかし僕はその告知を受けながら、残念な気持ちになりながら意外に冷静に対応していた。この話は会社として公表されていないために詳しくはここまでにするが、間違いない事実として僕はとある地方に転勤になる可能性が大になったという事だけははっきりした。受け入れたくない現実。最悪とも言える結末。しかし、それも自分の頑張りが不足していた事が原因なのだ。そんな大変な内示があったにも関わらず、まだ社内では公になっていないため、今週も何事もないかのように仕事をしている。そして今日に至るというわけだ。今日のTwitterのTLには、「福島原発 再臨界か!?」なんて報告も入ってきている。でも、万が一(どうも可能性が高そうだが)そうなったとしても、その事実を踏まえて対応するしかないのだ。子供には罪もないし放射能被害などで将来を無駄にしてほしくない。何としても子供だけは救う。今考えているのはそれだけだ。
その他の事も書いてみたい。大地震の次の日の事だ。娘が書道で何か書きたい、と言い出した。大地震を経験し、何かを残しておきたかったのだろう。「何を書こうかな」というので「『平和』なんていいんじゃない?」と薦めてみた。「『平和』かぁ」娘は僕たち家族の前で書き始めた。その後僕は会社に行き、母を実家に連れて戻ったのだが、僕が家を出た後に娘は別の言葉を書いたようだ。それが上の写真の字です。
もう一つ。3月26日(土曜日)僕は偶然、昼の3時頃に池袋の駅前に居た。そこでは元共産党の小池晃さんが東京都知事選の選挙演説を行っていた。(どうも世の中には共産党に対する色眼鏡的な見方があるようだ。少なからず僕にもある。しかし共産党支持者は意外に多い事も知っているのだが。)今まさに直面している震災・原発被害、そして以前から問題視されている病院不足、そしてあまり知られていないが実は東京は日本で一番高齢化が進む事など(団塊の世代が地方から移り住み、生まれ故郷に戻らないため)、東京が抱えている諸々の問題点に対する自分の考えを語っていた。東京都民ではない僕だが、職場が東京という事もあり、その演説に聞き入っていた。(15分位立って聞いていたように思う。)しかし、若者を中心とした、駅前にいる人たちは殆ど立ち止まる事無く”スルー”していたよ。その様子を見て、僕は思ったよ。「何だよ、日本・特に東京の人たちは何も変わっていないじゃないか!」とね。ダメだこりゃ。東北の被災者の痛みを感じている様子もない。福島原発は関東地方(特に東京)の電力供給のために、関東圏外の福島県に作られた事に対する自覚も見えない。悲しくなった。でも、僕はそんな世の中の空気には流されないよ。「日本を変える!そして子供達世代に引き継ぐ」この気持ちを強くした。

最後に暴言一発。「愚民政策」って言葉があるよね。官僚や政治家などの権力層が、国民に事実を伝えないで都合のいい情報だけを新聞やテレビで報道して国民の意識を高めない作戦、みたいな。僕は思うよ、「愚民政策」じゃないって。実際「愚民」なんだよ、今の日本の大多数は。僕も含めて人の痛みが理解できない愚か者なんだと思うよ。僕は3月26日のあの池袋の駅前を見てそれを確信したんだ。

2011年4月3日日曜日

3.11 大震災 そして その後 Part2

この前の続きを、また思いつくままに書き連ねたい。
JRの運行本数がまだ正常時の5割程度の線もあったため、僕の出社状況は遅刻したり休んだり、また帰りはとにかく家に帰り着く事を重視して早めの帰宅にしていた。夕方の大型計画停電宣言が出た日(確か3月16日?17日?)など、夕方4時半位には会社を後にした。「仕事にならんな。気分的にも節電的にも」これが当時の気持ちだった。これだけの災害が東北で起きているのに、また被災している関東地区が計画停電対象になり、にも関わらず東京23区のほぼ大半が停電対象にならない矛盾などもあり、今まで通りに仕事する事が本当に良いことなのか?という素朴な疑問もあった。しかし、大型計画停電宣言した日の赤羽駅の混雑と押し寄せる人波ぶりは怖かったよ。集団の足音がたまたまシンクロしたらしく、「ザッザッザッ」という無機質な足音が襲い掛かるように響いていた。東京という大都市で働いている事がつくづく嫌になった瞬間だった。自分はコンピュータ(IT)分野の仕事に従事している。だから電力の重要性も十分に感じているし、多大な電力量を必要としている企業群の一員なのだ。それは否定しない。だけど、そのために福島の原子力発電所が立ち、そのためにその電力を利用していない地方が放射能で苦しんでいる事をどのように受け取れば良いのか?大した事はできないにしても、節電には努力すべきだし、そもそも今のこの日本の状況で今まで通りの仕事をしていていいのか?他にやるべきことがあるのではないか?そんな思いが頭によぎる。正直仕事にならなかった。
せめて被災地に支援物資を送ろうと、物資提供先を検索した。その前に埼玉スーパーアリーナに被災者が来ていた事を知っていたので「埼玉スーパーアリーナに直接行こうかな?」とも考えたが、新聞記事にもなるほど認知されていて多くのボランティアが来ていた様子だったので、他の箇所を調べていたら『NPO埼玉ネット』の存在を知った。そこで生まれて初めてボランティア活動(支援物資の仕分けとトラックへの荷積み)を行った。支援物資を持って行き、そのまま作業を手伝ったのだ。(3月20日(日)と21日(祝))殆ど『物流会社の荷物運搬人』という感じでかなり肉体的にハードだったが、少しだけ世の中の為にはなったか?という思いになった。そこには20人程度の、僕と同様に初めてボランティア活動を行っている人達がいた。元トラック運転手、ガス会社勤務、主婦、会社事務員、中学教師、ディズニーランド従業員、学生、etc.。みんな聞いてみると似たような思いを抱いていた。『この災害に対して何かがしたい』ただそういう気持ちだった。被災者の苦しみはまだまだこれからも続くし、2日程度のボランティアで何かが救われるわけでもないだろう。でも何もしないよりはまだマシだった。それは自分自身の気持ちのためでもあった。うまく言えないが。
次の日(22日(火曜日))は朝から雨だった。20日夜から雨は降っていたし、大丈夫だとは思ったが(しかも前の日には荷詰めのために思い切り雨浴びまくったし、今更という気もあったが)原発爆発後の初めての雨だった事もあって『今日は無理して出社すべきではない気がする』と思い、部長と後輩にそのようなメールを朝早く送ったら、後輩からは「大丈夫ってテレビで言ってますよ」部長からは「休みは個人的判断に委ねます」と返信来る。ふーん。意外にリスク回避の意識はないのね。そう思って少し遅れて出社した。こういう「今まで通りの行動指針」が電力消費量を軽減化できない事に繋がるのではないかな?なんて下らない事考えたりした。疲れが溜まっていたのか、休みに誰かから風邪をもらったのかわからないが、水曜日に発熱して寝込んだ。木金は出社したが咳が止まらず、また土日に寝込んだ。この頃はこと仕事という面においてはパフォーマンス的に最低だった。
...今日はこんなところで。

2011年3月31日木曜日

3.11 大震災 そして その後

やっとブログを書き連ねる気になってきた。その位、3月11日に起きた、太平洋側東北地方を襲った大震災には凄まじい衝撃を受けた。そしてまだ東北地方はその被害の真っ只中にいる。死者は1万人を超えた。一部では10mを超えた津波の映像を見たときは言葉を失ったし、福島は原発事故により2重の苦しみにあえいでいる。本当に少しでも早く復興できますよう、心からお祈りするとともに、ささやかながら援助をしていこうと思うばかりである。
そのとき僕は会社の事務所内(東京都江東区)にいた。その数日前にも震度3程度の地震があり、「最近地震が多いですね。この前は大阪からの電話最中に起きて、向こうは全然関係ないからお構いなしに話してきてたんですよ~」なんて軽口を叩いていたのだが、地震は中々納まらない。それどころか経験した事もない長く強い揺れに、ビル9Fの事務所にいた僕はなすすべもなく机の下にうずくまっていた。『このままビル崩壊しても何も抵抗できないんだろうな』と覚悟した程だ。やがて揺れは少しずつ弱くなり、度胸の据わった(無謀な?)後輩はニコニコと僕を見て「もう大丈夫ですよ~」なんて感じで動き回っていたので、釣られて僕も机の下から出てきた。棚からは書籍が乱れ落ち、数台のサーバーが積まれた収納庫は1mほどずれて動いており、何台かのモニターは机から落ちていた。余震が何度も続き、「このビルから出よう!」と決まり(今にして思えば出ないほうが良かったのかも、との意見もあるが)近くの広い公園に非難した。その時、事務所ビルは外目に揺れては見えなかったが、近隣にある高速道路の橋桁はかなり揺れていたなぁ。
家に電話が中々通じない。その内にカミサンから携帯に「無事」との連絡があった。長女はまだ学校だが、きっと大丈夫だろうと。少しホッとした。東京に勤める姉や、実家・親戚に連絡(電話・メール)をした。義姉と姪っ子から「無事だよ」のメール。しかし姉と実家に繋がらない。そうこうしていると、「営業車が空いているから相乗りして帰りましょう」という事になった。車に乗ったが、東京駅近辺からピタリと動かなくなった。そうしたら姉とカミサンの両方からメールが届いた。母が関西にいる姪を迎えに新宿に行き、そのまま千葉の実家に連れて帰ろうという途中で地震になり、アクアラインが封鎖されたので新宿に引き返すらしい、との事だった。(しかしそのように連絡が取れあったのも偶然だった。実家近くの酒屋の叔父さんが関西の姪(長女)とSkype友達で、僕→酒屋の叔父さん→姪(長女)→姪(次女)+母→姉+かみさんという奇跡の連絡リレーが成立していたのだった)姉からはメールで「母を新宿でピックアップできないか?」と。しかし車はピクリと動かず、どうしようもない。そうこうしているうちに母と姪(次女)は新宿の京王プラザホテルのロビーに入り、対応してもらっている事との連絡が入った。この連絡が入ったのも奇跡的だった。僕の携帯はほぼ充電切れで諦めかけていたのだが、たまたま何かの役に立つかもと思い持っていたUSB経由での充電ケーブルを見せて同乗の先輩に「こんなもの持っているんですが、使えませんよね...」とダメ元で聞いてみたら、偶然ノートパソコンを持っていたので充電させてもらいながらのメール送受信。そして運転。そんな状況の中だった。家の最寄のコンビニに車を付けて先輩達と別れた。運転7時間半。結局、家に着いたのが朝の6時。カミサンは起きていて、相当怖かったらしく抱きついてきた。家族無事の確認。ホッとして、新宿に車を出そうとしたが、地震のために家の立体駐車場が作動不能になっており、家の車が出せない。JRが朝7時には再開するだろうとニュースで放送していたので駅に行き、待っていたが全然電車が発車の気配すら見せない。そうしていたら母から電話が入り「姉のマンション(都内)に地下鉄で行く」と連絡が入った。あぁ、良かった。みんな無事だった。疲れていたので昼に少し寝ていた。そうしたらカミサンが僕を起こしにきた。姉から僕の携帯に電話が入っていた。「母が東京駅で倒れた」という内容だった。最寄の病院に行くらしい。慌てて家を飛び出して東京駅にまずは向かった。どうも母は千葉への電車が通じない事と、余震が何度も起こっているので姪をそのまま関西(奈良)に送るために、一睡もせずに東京駅に向かったらしいのだ。東京駅に着いたら姉から病院の名前と住所が知らされた。タクシーで向かうと、姉から電話。「お母さん、病院がどうしても嫌みたいで検査もロクにせず出てきた(T_T)。また私のマンションに戻る」と。そのままマンションに僕も向かった。母はかなり疲れていた。食事も満足にしていなかった。お風呂に入るというので「大丈夫なのかな」と心配になった。そしてお風呂から上がり、食事をしようとして椅子に座ったところでいきなり倒れた。意識は何度か戻るのだが、また倒れる。(不整脈を起こしていたみたいだ)それを何度か繰り返した。救急車を呼ぼうとしても母は嫌がる。しかし、母は昔から体が丈夫で倒れた事などない。こんな状態になっている母は初めてだった。母は75歳。かなりの高齢だ。縁起でもない事も頭の片隅によぎった。『いや、大丈夫だ』もう賭けだった。「もう寝よう。疲れているんだよ」と、8時位からみんなで寝る事にした。朝になっても調子が悪いなら病院に連れて行こう。腹をくくった。
母は朝になったらかなり元気になっていた。しかし、千葉に今日帰ると言ってきかないので、一緒に帰る事にした。一旦家に帰り、会社に行って月曜日の午前中までにしなければならない仕事をその日(日曜)にこなした後、姉のマンションに再度向かい、母と千葉の実家に帰った。母はすっかり元気になっていた。その日も僕がいない間に寝ていたらしい。よくよく考えたら、75歳が徹夜したあげく食事も摂らず、そのまま行動したら倒れても不思議ではない。でも改めて母を大切にしようと思った。不思議なくらい、千葉の実家は何一つ落ちた様子も乱れた様子もない。それも安心した。テレビからは津波の凄まじい映像。そこで初めて「凄い事が起きた」と実感した。そして夜中に計画停電の発表がされた。
月曜日。電車は不通だが、バスが運行しているとの事で、遅れて出社した。東京駅に着いた時、地下の商店街は特に影響を受けた様子も見せずに開店していた。デパート地下の食品売り場は、各地の名産品を本当に普通に照明や音楽とともに販売している。計画停電のはずだが?こんなに東京では多大な電気の消費が許されるのか?僕はそのような様子を見てかなりの違和感があった。会社に行ったら「パンとお米が殆どの店で売り切れているんですよ。」と後輩が話しかけてきた。??東京駅地下街では普通に売っていたように見えたよ?スーパーやディスカウントストアが売り切れなのか?買占めなのかい?やるせない気持ちになった。

今日はここまでにしておきます。また。