2011年4月21日木曜日

原発が日本の現状を露にする --資本主義の歪み--

僕は大学を卒業し社会人となって22年目になる。21年の社会人生活の中で、公私に渡って多くの人達と出会う事ができた。その中で、ビジネスにおいて「この発言は如何なものか?」と思うような事を口にする人に出会う事がある。例えばこんな発言だ。
...その方がいらっしゃる地方に豪雨なので災害が起きたときなど...
「この度は大変な被害でしたね。どのような状況なのですか?」
「いやぁ、もうちょっと被害大きかった方が良かったね。これじゃあ災害復興の仕事も中途半端だよ。金にならないね。」
きっと発言している方は冗談のつもりなのだろう。そういう時は「あー、そうですか。」と適当にかわす事にしているが(きっと悪意はないという前提で)、しかし冗談にしてもこのような発言は道徳的にどうなんだろうと思います。僕が青臭いのだろうか?しかもこのような発言をする方は意外に多かったりする。冗談でも子供には聞かせたくないセリフだ。僕の知り合いで石油業界に勤務している知人がいて、2001年の9.11の直後にその知人に何気なく
「いやぁ、大変な事が起きたね。アメリカとアフガニスタンが戦争にならなければいいけど」と言ったら
「あ~、適当に爆弾落として終わりじゃない?まぁ人が死なない程度にさ。アメリカだって石油を安く手に入れたいだろうからさ。」
その時はあまりに意外な事を言われたのでビックリして怒りもできなかった。ビジネスによってかどうかよく分からないが、人の不幸に対しての感覚が鈍っているのであろうか?僕には理解できない感覚だ。

原発という巨大なプラント工事・燃料の重量に対して想像を絶する電力エネルギーを出力するによる費用対効果・電力会社が独占的である事による電気料金の高さ、収益の大きさ・巨額の広告料や裏金などでマスコミや政治家を利用したプロパガンタ。極端に言えば、金のためなら何でもやるという姿勢。最近で言えば、計画停電とは一体何だったのかと思う。もうかれこれ行われていない。これは一般家庭や企業努力の賜物か?いや、元々電力は足りていたと社民党党首・福島瑞穂議員はツイッターで書き込みしていた。ほんの一部の連中がこのようなふざけきった事を考えるのだろう、せめてこの大災害の最中である今はそう思いたい。でも人は何故、決して正しい行為とは思えない事に対してもビジネスという言葉で表現してしまうのだろうね。僕も回り回って、あるいは直接的に恩恵を被っている。公共事業に関わっている仕事に携わっているから。だからいつも思うのです。せめて明らかに無駄なものだけは公共事業投資して欲しくないと。でも日本には50を超える原子力発電所があり、電力は余っている。電力だけではない。地方には車もロクに走らない高速道路や、どう見ても必要性を感じない空港などを作り自然を失っているのが現実だ。
それでも人々の生活がある程度平たく豊かになれば、それはそれで良いのかもしれない。でも現実は違うよ。巨額の富を得たにも関わらず、一番重要な安全面・メンテナンスに関しては「費用対効果が見込めない」などという、単に数値的論理だけの空論で削減されるのだから。作成時に関しても災害の想定を高く見積もる事をせず、それを「コスト削減に成功した」などと表現して、富を一部の人間が握りしめているのだ。実作業者(主に下請け業者)はコスト削減されているのだから収入も少ない。しかし仕事がない(本来あるのだけど)地方に大型事業を持ってきて、その事業に携わる市民を少し潤す事で利権者は巨額の富を得て陰で笑っているわけだ。

しかし今回の福島原発の事故により、その歪みが露になった。その被害の収束を必死に行っている方々は下請け業者や自衛隊や消防隊の方々だ。僕は彼らの体を張った行為に心から感謝と尊敬とお詫びをするよ。電力供給を得ていた1人として正面から向き合わなければいけない。その反面、巨額の富を得ていた人達は表に出てきているのか?東京電力だけではないだろう?原子力保安院や安全委員会を責めていればいいのか?違うよ。もっと多くの人が直接的に関わっていたんじゃないのか?責任論を言ったところで災害が止まるわけではないが、せめてもう福島の悲劇を2度と呼ばないようにしようよ。原子力という人間のコントロールを超えた存在によって日本が無くなるかも知れないよ。

今日、こんな記事を見つけた。言葉を失います。

福島が殺される



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