2011年3月31日木曜日

3.11 大震災 そして その後

やっとブログを書き連ねる気になってきた。その位、3月11日に起きた、太平洋側東北地方を襲った大震災には凄まじい衝撃を受けた。そしてまだ東北地方はその被害の真っ只中にいる。死者は1万人を超えた。一部では10mを超えた津波の映像を見たときは言葉を失ったし、福島は原発事故により2重の苦しみにあえいでいる。本当に少しでも早く復興できますよう、心からお祈りするとともに、ささやかながら援助をしていこうと思うばかりである。
そのとき僕は会社の事務所内(東京都江東区)にいた。その数日前にも震度3程度の地震があり、「最近地震が多いですね。この前は大阪からの電話最中に起きて、向こうは全然関係ないからお構いなしに話してきてたんですよ~」なんて軽口を叩いていたのだが、地震は中々納まらない。それどころか経験した事もない長く強い揺れに、ビル9Fの事務所にいた僕はなすすべもなく机の下にうずくまっていた。『このままビル崩壊しても何も抵抗できないんだろうな』と覚悟した程だ。やがて揺れは少しずつ弱くなり、度胸の据わった(無謀な?)後輩はニコニコと僕を見て「もう大丈夫ですよ~」なんて感じで動き回っていたので、釣られて僕も机の下から出てきた。棚からは書籍が乱れ落ち、数台のサーバーが積まれた収納庫は1mほどずれて動いており、何台かのモニターは机から落ちていた。余震が何度も続き、「このビルから出よう!」と決まり(今にして思えば出ないほうが良かったのかも、との意見もあるが)近くの広い公園に非難した。その時、事務所ビルは外目に揺れては見えなかったが、近隣にある高速道路の橋桁はかなり揺れていたなぁ。
家に電話が中々通じない。その内にカミサンから携帯に「無事」との連絡があった。長女はまだ学校だが、きっと大丈夫だろうと。少しホッとした。東京に勤める姉や、実家・親戚に連絡(電話・メール)をした。義姉と姪っ子から「無事だよ」のメール。しかし姉と実家に繋がらない。そうこうしていると、「営業車が空いているから相乗りして帰りましょう」という事になった。車に乗ったが、東京駅近辺からピタリと動かなくなった。そうしたら姉とカミサンの両方からメールが届いた。母が関西にいる姪を迎えに新宿に行き、そのまま千葉の実家に連れて帰ろうという途中で地震になり、アクアラインが封鎖されたので新宿に引き返すらしい、との事だった。(しかしそのように連絡が取れあったのも偶然だった。実家近くの酒屋の叔父さんが関西の姪(長女)とSkype友達で、僕→酒屋の叔父さん→姪(長女)→姪(次女)+母→姉+かみさんという奇跡の連絡リレーが成立していたのだった)姉からはメールで「母を新宿でピックアップできないか?」と。しかし車はピクリと動かず、どうしようもない。そうこうしているうちに母と姪(次女)は新宿の京王プラザホテルのロビーに入り、対応してもらっている事との連絡が入った。この連絡が入ったのも奇跡的だった。僕の携帯はほぼ充電切れで諦めかけていたのだが、たまたま何かの役に立つかもと思い持っていたUSB経由での充電ケーブルを見せて同乗の先輩に「こんなもの持っているんですが、使えませんよね...」とダメ元で聞いてみたら、偶然ノートパソコンを持っていたので充電させてもらいながらのメール送受信。そして運転。そんな状況の中だった。家の最寄のコンビニに車を付けて先輩達と別れた。運転7時間半。結局、家に着いたのが朝の6時。カミサンは起きていて、相当怖かったらしく抱きついてきた。家族無事の確認。ホッとして、新宿に車を出そうとしたが、地震のために家の立体駐車場が作動不能になっており、家の車が出せない。JRが朝7時には再開するだろうとニュースで放送していたので駅に行き、待っていたが全然電車が発車の気配すら見せない。そうしていたら母から電話が入り「姉のマンション(都内)に地下鉄で行く」と連絡が入った。あぁ、良かった。みんな無事だった。疲れていたので昼に少し寝ていた。そうしたらカミサンが僕を起こしにきた。姉から僕の携帯に電話が入っていた。「母が東京駅で倒れた」という内容だった。最寄の病院に行くらしい。慌てて家を飛び出して東京駅にまずは向かった。どうも母は千葉への電車が通じない事と、余震が何度も起こっているので姪をそのまま関西(奈良)に送るために、一睡もせずに東京駅に向かったらしいのだ。東京駅に着いたら姉から病院の名前と住所が知らされた。タクシーで向かうと、姉から電話。「お母さん、病院がどうしても嫌みたいで検査もロクにせず出てきた(T_T)。また私のマンションに戻る」と。そのままマンションに僕も向かった。母はかなり疲れていた。食事も満足にしていなかった。お風呂に入るというので「大丈夫なのかな」と心配になった。そしてお風呂から上がり、食事をしようとして椅子に座ったところでいきなり倒れた。意識は何度か戻るのだが、また倒れる。(不整脈を起こしていたみたいだ)それを何度か繰り返した。救急車を呼ぼうとしても母は嫌がる。しかし、母は昔から体が丈夫で倒れた事などない。こんな状態になっている母は初めてだった。母は75歳。かなりの高齢だ。縁起でもない事も頭の片隅によぎった。『いや、大丈夫だ』もう賭けだった。「もう寝よう。疲れているんだよ」と、8時位からみんなで寝る事にした。朝になっても調子が悪いなら病院に連れて行こう。腹をくくった。
母は朝になったらかなり元気になっていた。しかし、千葉に今日帰ると言ってきかないので、一緒に帰る事にした。一旦家に帰り、会社に行って月曜日の午前中までにしなければならない仕事をその日(日曜)にこなした後、姉のマンションに再度向かい、母と千葉の実家に帰った。母はすっかり元気になっていた。その日も僕がいない間に寝ていたらしい。よくよく考えたら、75歳が徹夜したあげく食事も摂らず、そのまま行動したら倒れても不思議ではない。でも改めて母を大切にしようと思った。不思議なくらい、千葉の実家は何一つ落ちた様子も乱れた様子もない。それも安心した。テレビからは津波の凄まじい映像。そこで初めて「凄い事が起きた」と実感した。そして夜中に計画停電の発表がされた。
月曜日。電車は不通だが、バスが運行しているとの事で、遅れて出社した。東京駅に着いた時、地下の商店街は特に影響を受けた様子も見せずに開店していた。デパート地下の食品売り場は、各地の名産品を本当に普通に照明や音楽とともに販売している。計画停電のはずだが?こんなに東京では多大な電気の消費が許されるのか?僕はそのような様子を見てかなりの違和感があった。会社に行ったら「パンとお米が殆どの店で売り切れているんですよ。」と後輩が話しかけてきた。??東京駅地下街では普通に売っていたように見えたよ?スーパーやディスカウントストアが売り切れなのか?買占めなのかい?やるせない気持ちになった。

今日はここまでにしておきます。また。

0 件のコメント:

コメントを投稿